“12月17日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1568=永禄11年 京都の公卿・烏丸家でこの日、名門公卿に「狸汁」が振る舞われた。
集ったのは万里小路、山科、甘路寺、正親町などの名門の面々。戦国期の公卿・山科言継の日記『言継卿記』には「烏丸家で狸汁をつゝき、酒を酌み交わして興じ、夕方に及ぶ」とある。この年は9月に織田信長が足利義昭を奉じて入洛、その勢いをかって摂津、和泉両国からは戦費に充てる軍用金「矢銭」を徴収した。その額は堺には1万両、大坂・石山本願寺には5千両だったとされる。さらに諸国の関所を撤廃する新たな御触れを出すなど時代は激動しつつあった。
狸汁=たぬき汁は現在では「こんにゃくを入れた味噌汁で精進料理の一種」をさすことが多い。タヌキに代えて凍らせたこんにゃくをちぎって胡麻油で炒め、そこによくすり下ろしたおからを加えて味噌汁にしたものが僧侶たちに精進料理として広まった。古くはタヌキやアナグマなどの獣肉を入れた味噌仕立ての汁物だったが、臭いがきついのでタヌキが「悪食をしない」という冬季に捕れたものを使って料理した。
この日の狸汁がそのどちらだったかはわからないが、わざわざ名門公卿を招待しての宴席というのだから貴重な料理だったことは間違いない。当時はアナグマとタヌキは区別していなかったがアナグマのほうは非常に美味とされているからあるいは<アナグマ汁>だったかもしれない。それとも新しい権力者となる信長を迎える密議をこらしたとするなら同じタヌキ科でもムジナのほうで<同じ穴のムジナ汁>だったかも。
*1901=明治34年 東海道線の新橋~神戸間の急行1、2等客用に食堂車が登場した。
食堂車の定員は28人で料理は精養軒の洋食が10銭から15銭、現在の金額にすると1,000円から1,500円、ビールは1本18銭だったからこちらは1,800円と少し割高だった。利用客からは「汽車のなかに料理屋ができた」と大好評だったとこの日の新聞が伝えている。
ちなみに新しく採用された食堂車の女給仕=ウエイトレスの日給は17銭=同、1,700円だったから激務の割にはビールより安かった。
*1900=明治33年 警視庁は歳末交通取締りとして自転車下車を指示した急坂を重点警戒した。
10月に都内の急坂13カ所の坂の上に「自転車に乗り此の阪(坂)路を降るべからず」という標柱を建てたがそれを無視する輩が相次いだ。それがどこだったかは興味深いと思われるので紹介しておこう。(規則に記された「阪」は坂で表記する)
麹町区:九段坂、三部坂、甲斐坂
小石川区:安藤坂、薬師坂、富坂、目白坂
本郷区:壱岐殿坂、団子坂
麻布区:鳥井坂、芋洗坂
牛込区:神楽坂
神田区:サイカチ坂
たしかにいずれも今でも結構急ですよね。
ところで当時は自転車にも税金がかかった。自家用は年間1台4円50銭、営業用は同3円で車体の前面にニッケルか真鍮製の鑑札を取り付けることになっていた。事前に半年分の税金を添えてそれぞれの住所地の区役所収税課へ申し込む必要があった。流行の乗り物に乗るのも色々たいへんだったわけです。
*1164=長寛2年 京都の蓮華王院(三十三間堂)の落慶法要が行われた。
平清盛が後白河上皇のために建てた院御所の法住寺殿境内の西側に造営した。千体の観音像を安置したのは圧巻で上皇もことのほか喜んだはずだ。清盛は娘の徳子を天皇に嫁がせたいと熱望していたからその事前工作の一環だった。もちろん事前工作は他にもさまざまあったから徳子はめでたく高倉天皇に嫁ぎ、清盛は「外戚」の地位を手に入れた。
この建物には創建時には五重塔も建てられていたが1249=建長元年の火災で本堂とともに焼失、現在の国宝建物は1266=文永3年に本堂のみ再建された。造営当初は朱塗りの外装、内部は極彩色で仏像もすべて金色だったからまさに煌めくばかりの荘厳さだった。
江戸時代からは各藩の弓術家により本堂西側の軒下で矢を射る「通し矢」が始まった。的までの距離は当初は建物の長さとほぼ同じ121mだったが現在の「遠的」は60mで行われている。毎年、新成人が振り袖姿で行う通し矢行事はテレビなどで紹介されるが緊張していることもあってなかなか的には命中しない。ま、二十歳の記念だからそれもご愛嬌ではあります。