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“12月19日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1910=明治43年  徳川好敏と日野熊蔵が東京・代々木練兵場で日本の空を初めて飛行した。

ふたりはいずれも陸軍大尉で徳川は27歳、日野は31歳。陸軍の「臨時軍用気球研究会」の委員として徳川はフランス、日野はフランスとドイツで飛行機の操縦を習って帰国した。それもあって徳川はフランス製のアンリ・ファルマン複葉機、日野はドイツ製のグラーデ単葉機という<慣れた機体>を使用して初の公開飛行に臨んだ。

当時、国内に飛行場はなく、急遽、代々木練兵場を整地して機体を整備するためのテント2張りを設置して「仮飛行場」とした。練兵場は原宿駅の西側に広がっており、1920=大正9年に東北部分に明治神宮が創建され、残りの跡地は戦後、代々木公園になっている。公開飛行は15日から19日までの5日間の予定で行われたが気球研究会は軍用に飛行機を導入するビッグチャンスと考えていたから新聞で事前に大々的に予告した。

当時の日本人にとって実物の飛行機は見たこともなかったし、ましてそれが空を飛ぶということなど信じられなかった。このため連日、夜明け前から観客が詰めかけ焚火で暖をとりながら見守った。最終的には延べ50万人の人出を記録したが人出目当てにたばこ屋やパン屋などいくつもの屋台ができた。

この日の天候は晴れ。午前中はほぼ無風だが午後からは5~6メートルの風が予報されていたから徳川らは午前中の離陸をめざした。最初に飛び立ったのは徳川機だった。午前7時50分、軍服姿で軍帽を後ろ向きにかぶり、あご紐をかけた徳川に飛行許可が出た。30メートルの滑走のあと鮮やかに舞い上がると高度をぐんぐん上げて高度70メートルで左に旋回し3分間で約3,000メートルを飛んで出発点に戻ると大観衆は拍手喝采に沸いた。

徳川は機を降りて気球研究会の会長で公開飛行総責任者の石本中将の前にかけよると挙手して「徳川大尉、第一回飛行終了!エンジン機体に異状ありません」と報告した。続いて10時30分からは2回目に高度40メートルで約700メートルを飛んだが着陸時に片方の車輪を損傷したためそこで終了することになった。日野はエンジンの整備に手間取り、正午過ぎ6メートルの風のなかを飛び立ち高度20メートルで1分30秒、約1,000メートルを飛んで無事着陸した。

朝日新聞は「早くも飛行機は地上を離れて、依然として梯子なき宙高く攀じ登りつつ進む。十秒、二十秒、三十秒、五十秒、松の木よりも高し、森よりも上に出たりと、面あおむけ眼みはりて打眺める間に、鳥は魂消て東にとび、雀は驚いて西に逃ぐ」と紹介した。

この日の飛行順から旧幕府の血筋をひく徳川が一番に空を飛んだとする資料もあるが、飛行術では先輩の日野のほうが強風のなかを見事に飛んで見せたことやフランスでは飛行学校の飛行実習を先に体験していたということもあり<この日、日本人が日本の空を初めてエンジン付飛行機で飛んだ>としておく。これを記念して12月19日は「日本初飛行の日」。

*1586=天正14年  太政大臣になった秀吉が新たに「豊臣姓」を受けた。

さきに関白になった際に秀吉は公家の近衛前久の養子となることで「藤原姓」を受けたが<俗人に藤原姓>を名乗らせるのは問題であるということになり、学者らに意見を聞いた結果、新たな姓を朝廷から賜るのが良いということになった。これによって源、平、藤原、橘に加えて新たな<名家>として豊臣が誕生した。

その豊臣秀吉は1597=慶長元年のこの日、長崎で26人のカトリック信者を処刑した。彼らは幕末の1862=文久2年にローマ教皇ピウス9世によって<聖人の列>に加えられたため「日本二十六聖人の大殉教」と呼ばれる。基督教の信仰を理由に最高権力者による指令で処刑が行われたのは初めてのことだった。26人のうち日本人は20人、スペイン人4人、メキシコ人、ポルトガル人が1人ずつで年齢は12歳から64歳でいずれも男性だった。

*1906=明治39年  高等教育会議で尋常小学校の修業年限が4年から6年に引き上げられた。

この案は翌年3月の小学校令の改正によって実現した。義務教育としての「尋常小学校は6年間」が定着した。授業内容は1、2年生が修身、国語、算術、唱歌、体操で、2年になると大半の授業時間が国語にあてられた。3年以上は図画、理科、国史、地理が順次加わり、女子は裁縫を学んだ。

1941=昭和16年の国民学校令により国民学校が設置されると尋常小学校と高等小学校は消滅、戦後の1947=昭和22年には消滅前の尋常小学校を母体に小学校の名称が復活、高等小学校は新制中学校に改組された。

尋常小学校を卒業したあとの進路は旧制中学校、高等女学校、実業学校といった旧制中等教育学校、高等小学校、青年学校普通科に進学するか就職した。1936=昭和11年の統計では旧制中等教育学校への進学は21%、就職とか家業を継ぐのは13%、高等小学校に進学するのは66%だった。その進学率は年々上昇して第二次世界大戦のころにはほとんどが高等小学校に進学したとされる。

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