“12月26日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1948年 イースター島の漁師レオナルド・バカラッティが帰り道で迷った。
いや、広い海の上でのことだから<方角がわからなくなった>というのが正しいか。帆付きのアウトリガーカヌーに息子2人と助手3人で魚釣りに熱中しているうちに島に戻れなくなった。ひとりで漁に出たわけではなかったし息子は別として3人の助手までいたというのだからバカラッティは相当なベテラン漁師だったのだろう。
イースター島は南米のチリ領だが本土からは西に3,500キロ離れた太平洋に浮かぶ火山島で広さは長崎県の平戸島とほぼ同じ163平方キロに約3,800人が暮らしている。公用語はスペイン語でご存じ多くの「モアイ像」が建っているので有名だ。
おっと、ついつい寄り道してしまったが漁師のバカラッティが島に戻れなくなったところまで紹介した。その後、13日間もイースター島を探し続けたがとうとう見つからなかった。
14日目の早朝、バカラッティは息子や助手たちを前にこう言った。
「よし、それならタヒチをめざそう。ジイさんからイースター島より高い山があるタヒチはよほど見つけやすいと聞いた。北西に真っすぐ向かうとそのうち必ず到着する」
アウトリガーカヌーでも「船長」のことばは絶対だ。昼間は太陽の位置、夜は星で方角を割り出した。
紹介し忘れたがイースター島とタヒチの距離はペルー本土とまったく同じ3,500キロある。彼らがタヒチに到着したのはちょうど37日後、食料は釣った魚でまかない病気ひとつしなかった。このニュースは世界を駆け巡って<文明国>の人々を驚かせた。ところが当事者やイースター島の人たちにしてみれば別にどうということではなかったのである。迷ったからはるかかなたのその先のタヒチをめざしたというのもきわめて<正しい判断>だった。
*1887=明治20年 燃え上がる自由民権運動を弾圧するための保安条例が公布された。
治安警察法や治安維持法と並ぶ戦前の<弾圧法>で、集会条例と同じように秘密の集会や結社を禁じた。いちばんの<目玉>は内乱の陰謀、教唆、治安の妨害をする恐れがあるとした自由民権運動家570人を皇居から3里(約12キロ)以遠に退去させたこと。さらに3年以内の3里圏内への出入りや居住を禁じた。まさに東京からの<ところ払い>だった。
内務大臣の山縣有朋と警視総監の三島通庸が建議したといわれる。退去させられた主だった人物は尾崎行雄、星亨、中江兆民、林有造らがいた。立憲改進党の尾崎は「道理が引っ込む時勢を愕(おどろ)く」といって号を「学堂」から「愕堂」に替えたのはせめてもの<うっぷん晴らし>だった。のちに<へん>をとって「咢堂」にしたのは心身の衰えを感じたからという。
*1934=昭和9年 巨人軍の前身となる「大日本東京野球倶楽部」が結成された。
参加したのは戦前・戦後の球界で活躍する内野手の三原脩、水原茂、苅田久徳、豪腕でアメリカ大リーグの選手らをうならせた沢村栄治や初の外人投手ヴィクトル・スタルヒンら19人の有力選手だ。静岡・草薙球場で合宿し2月14日に横浜から「秩父丸」でアメリカ遠征に出発した。このときアメリカへ先乗りしていたマネージャーの鈴木惣太郎が現地マネージャーに「チーム名が長すぎるのでもっと簡単な名前を思いつかないか」と相談した。すると「それなら人気チームのジャイアンツかヤンキースはどうだい」と言われ「ジャイアンツなら日本語で巨人、これに決まりだ」として東京巨人軍が誕生した。
遠征の成績は75勝33敗1分だったがマイナーリーグが相手だったからプロ野球隆盛の道はまだまだ遠かった。
*1965=昭和40年 中山競馬場で行われた第10回有馬記念でシンザンが初の五冠馬となった。
このときの騎手は松本善登でオッズは単勝1.1倍の圧倒的人気だった。ところが最後の第4コーナーですぐ前を行く宿敵ミハルカスの加賀武見騎手がシンザンに馬場状態の荒れていた内側を走らせようと外いっぱいを回った。ところが松本はさらに外側に進路を取り直線でミハルカスをかわして優勝した。テレビカメラからその姿が一瞬消えたから「シンザンが消えました」とアナウンサーが絶叫した。試合後それを聞かれた松本は「シンザンが外を回れと言った」という名コメントを残した。
皐月賞、ダービー(=東京優駿)、菊花賞に勝って戦後初の「クラシック三冠馬」となり、さらに宝塚記念とこの有馬記念を制したことで「五冠馬」となった。直線を一気に駆け抜ける速さから「鉈の切れ味」と形容され、引退後は「シンザンを超えろ」が合言葉になった。
シンザンが本拠地としていた京都競馬場の「シンザンゲート」脇にはその石像が残る。これを制作した彫刻家の三井高義は「目がすばらしい。何よりそれに圧倒された」と語っている。「馬体が」ではないところが芸術家の<眼>であろう。