“12月30日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1927=昭和2年 東京の上野―浅草間2.2キロにわが国初めての地下鉄が開通した。
当初は6月末の開業を目標に建設工事が進められたが難工事が続き、ようやく年内開業のめどが立ったのは12月2日に行った試運転が無事成功してから。試運転には上野電車区に東京地下鉄道会社の早川徳次社長以下首脳陣が集まり、国鉄の東京鉄道局からも専門家を招いて初の地下鉄線乗り入れ試験が行われた。結果は大成功で手直しを済ませて26日に鉄道省の公式監査をパスした。現在の営団線は当時の路線をそのまま引き継いでいるから中間に同じく稲荷町、田原町の二駅があった。
前日の29日に上野公園にアーチを作って大テントが張られ、皇族や有名人、鉄道・工事関係者約3千人が招待された。招かれた人々は羽織袴やモーニングの正装だったが主催者側はあえて式は行わず、テントに用意したサンドウィッチと飲み物をとり、おみやげの記念写真帳を渡して浅草駅まで自由に往復してもらうスマートな趣向だった。会場や駅構内などに貼り出されて披露された三越の主任デザイナーで商業美術界の売れっ子だった杉浦非水制作のポスターが人目を引いた。左前方から到着する車輌をホームで待つ乗客の姿が鮮やかに描かれ、上に「道鐡下地の一唯洋東」のロゴ、当時は<右書き>でしたから。
車両は防災上から鋼鉄製で片側3ドアのロングシートで連結できるように前後筋違いの位置に運転席があり定員は120人、暗い地下でも目立つようにとベルリンの地下鉄を参考にオレンジ色に塗装された。車内は圧迫感を減らすためにアーチ天井と影がでないよう側面からの間接照明を採用した。窓は乗客が頭や肘を出さないよう上半分だけの開閉で吊皮は米国製の白いホウロウ引きで使わないときは邪魔にならないよう窓側にはね上がるのが自慢だった。早くも先進機能としてATS(自動列車停止装置)が取り入れられた。改札口にはニューヨークの地下鉄と同じ自動改札装置が輸入された。いまでも遊園地などにある一方向のみ回転する「ターンスタイル式」で10銭白銅貨が入るように改良されていた。
当時の2大繁華街の上野・浅草間は歩いて十数分の距離でバスは5銭、市電は7銭で地下鉄の所要時間は4分50秒だったが何でも<初物好き>な江戸っ子、物珍しさから始発前に早くも客が殺到、上野では長蛇の列で乗るのに1時間以上かかった。3分間隔で運転された車両はいずれも超満員、初日だけで10万人の利用客があり鉄道界の新記録とされた。
洞穴(ほらあな)の口でランデヴー、
土竜(モグラ)の恋ぢゃありません
モダン銀座の景色です。
これは「地下鉄」という題の詩で『主婦之友』に登場するのは1934=昭和9年に銀座を抜けて新橋まで開通した頃だが地下鉄事業は順調な発展を続け東京新風俗の舞台になった。もっともこの詩は
眩(まばゆ)い春の日を避けて、
恋の暗路(やみじ)をしんみりと
ゆく地下鉄もオツなもの。
彼女左翼ぢや無いけれど、
今日恋人と手をとって
地下に潜入いたします。
と続きますからタダじゃ終わりません。
*1901=明治34年 相馬愛蔵・黒光(星良)夫妻が東大赤門前にパン屋「中村屋」を開店した。
愛蔵は長野県生まれ、札幌農学校で養蚕を学んで何冊もの専門書を書く研究者だったが養蚕事業を手伝った夫人が健康を害したため東京で療養させていた。この店は新聞広告で見つけ「居抜きで700円」で買い取った。夫妻は3ヶ月間1日3食のうち2食をパン食にして健康食で将来性もあると自信をつけた。1904=明治37年にクリームパンを日本で初めて発売した。3年後に新宿に移転し現在地に本店を構え「東京新宿中村屋」となった。
愛蔵は高給で外国人技師を雇い入れ中華饅頭、月餅、ロシヤチョコレートなどを開発して経営の基礎固めをしたが開業に当たって以下の5カ条を定めた。
1. 営業が相当の目鼻がつくまでは衣服を新調せぬこと。
2. 食事は主人も店員女中たちも同じものを摂ること。
3. 将来どのようなことがあっても、米相場や株には手を出さぬこと。
4. 原料の仕入れは現金取引のこと。
5. 最初の3年間は、親子3人の生活費を月50円と定め、養蚕収入から支出すること。
商業道徳として無意味なお世辞を排し良い商品を廉価で販売することに徹した。夫妻は店の裏手にアトリエを作り「文芸サロン」のパトロンとして多くの芸術家を育てた。1918=大正7年には右翼の重鎮だった頭山満の依頼で亡命してきたインドの革命家のボースをかくまった。長女の俊子がこのボースと結婚したことで同店の名物となるわが国初の「インド式カレーライス」を発売することになったことを付け加えておく。