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“1月2日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*757年  大燕帝国の皇帝に即位した安禄山が後継ぎを巡り皇太子の慶緒に殺害された。

安は康国=サマルカンド出身でソグド人と突厥(とっけつ)人の混血だった。父を早く亡くしたが巫女だった母親が軍閥の有力者の安氏と再婚したため養父として育てられた。内乱を避けて一族は唐に亡命した。諸勢力が混在する地域に育ったため6カ国語が話せるのを買われて唐の貿易官に任じられて頭角を現した。勇猛で地理を熟知していたから辺境で反乱が起きると数騎だけで出かけても必ず数十人を捕えて戻った。その後も勝利を重ね地方の将になったが機転がきき人に取り入るのが巧みな半面、ずる賢く残忍だったとされる。

都の長安に上り玄宗皇帝に認められると官吏登用制度の「科挙」に不正があったことを告発、イナゴの害を防いだ功績などで北辺の外交を担当する「節度使」を任され強力な兵を育てた。一方では玄宗の寵愛する15歳下の楊貴妃に取り入り、その養子になるなど宮廷内部に入り込んだ。体重は200キロを優に超え、自分では服を着られず帯が結べない巨体だったが故郷の踊りは巧みにこなしたという。皇帝から<大きな腹の中身>を聞かれると「陛下への赤心=忠誠が詰まっております」とぬけぬけと答えた。

反面、賄賂をつかって情報を集めていたから皇帝に安禄山の謀反の兆しがあることを何人もが報告したが聞き入れられず、逆に左遷され、その情報が筒抜けになったことで安の配下に暗殺された。755年、楊貴妃の従兄弟の楊国忠との対立で身に危険が迫ったことを知った安禄山はとうとう蜂起する。「安史の乱」とか「安禄山の乱」と呼ばれる戦乱は周辺の国を巻き込んで10年近くも続いた。

緒戦は唐の国軍のほとんどを任されていた安禄山は親衛隊8千騎、15万の兵で1カ月足らずで副都の洛陽を占拠する。楊国忠は敗戦の責任を取らされて処刑され、国を傾けたと言われた楊貴妃も殺されてしまう。玄宗皇帝は楊貴妃の死を深く悲しんだが、燕を建国して「大燕聖武帝」を名乗った安禄山も同じで間もなく病で失明してしまう。これは日夜の歓楽が過ぎたからとも糖尿病の悪化ともいわれるが皇帝の地位にあることわずか1年足らずで皇太子である息子の手にかかって最期を迎える。55歳だった。この戦乱がきっかけで隆盛を誇っていた唐は滅亡に向かう。

そういえば西郷隆盛は明治新政府の一員として廃藩置県を断行したことを当時の薩摩藩の最高権力者だった島津久光に安禄山にたとえられ「不忠者」と批判されている。久光はそれに抗議して自邸の庭で一晩中花火を打ち上げさせて旧大名層の間ではあからさまに反発した唯一のケースとされる。そこまでいわれた西郷も困ったようで西南戦争の際も最後まで迷惑をかけないように気にかけたが久光自身は戦乱をさけて桜島へ疎開した。

*1954=昭和29年  皇居での一般参賀の群衆が将棋倒しになって多数の死傷者を出した。

晴天に恵まれたこの日、過去最高の38万人が詰めかけ、皇居前広場から二重橋、宮内庁前をぎっしりと埋めた。両陛下を待っていた群衆が動かなかったところへ二重橋付近で一時停止させられた群衆が後方から押したことから橋上で将棋倒しが起きた。この事故で16人が死亡し重軽症者65人を出す大惨事となった。「二重橋事件」と呼ばれ雑踏警備のあり方が大きな社会問題になった。

*1959=昭和34年  ソ連が月ロケット「ルナ1号」の打ち上げに成功、初の人工惑星となった。

アメリカとの宇宙開発競争を続けていたソ連は1957年10月に人工衛星「スプートニク1号」11月には犬を乗せた「2号」の打ち上げに成功した。翌年、アメリカも負けじと1月に人工衛星「エクスプローラー1号」12月にはサルを乗せたジュピター・ミサイルを打ち上げた。

こうしたなかで月ロケット「ルナ1号」は月への到達は<外れた>が月から6千~8千キロのところを通過し、太陽の周りを回る初の人工惑星となった。打ち上げには多段式ロケットを使い人工衛星は「スプートニク(3号)」より大きく最終段は147キロと発表されたが詳細は機密として明かされなかった。この年3月にはアメリカのパイオニア4号が初の月探査に成功すると9月にはソビエトがルナ2号で月面到達、10月にはルナ3号で撮影された初めての月の裏側の写真撮影に成功した。

「見なれている表側とあまり変わらないな」というのが印象だったがやれ海だとか山だとかの<月面写真>が話題になりました。

*1902=明治35年  東京・上野動物園に2頭のライオンが到着した。

ドイツ・ハンブルグのハーゲンベック動物園から買い入れたもので貨物船シレンジャー号に積まれて元旦、横浜港に到着。この日、午後4時50分、初詣でにぎわう新橋駅に着き直ちに入園し第25号棟に収容されたが昭和のパンダほどは大騒ぎにならなかったようだ。

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