“1月3日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1922年 エジプト・ナイル川西岸の「王家の谷」でツタンカーメン王の墓が発掘された。
見つけたのは5年がかりの空振りにもめげず探し続けてきた遺跡発掘家のハワード・カーターで、引き続き1926年までの調査で「黄金のマスク」や2千点もの副葬品を発掘した。ツタンカーメン王は古代エジプト第18王朝時代の王とされていたが実在しない<幻の王>ではないかという説や王墓は盗掘にあって失われたとも言われていた。資金提供を続けたイギリスの富豪カーナヴォン卿もさすがに資金が底をつきこのシーズン限りで発掘の中止を決意していたが<世紀の大発見>に世界中が湧いた。
見つかった「黄金のマスク」や「黄金のミイラ棺」「黄金の玉座」をはじめ金銀宝石をふんだんに使った副葬品は約3千年も地下に眠っていたとは思えないほどあざやかでカイロ博物館に収蔵されている。わが国でも何度か「ツタンカーメン展」が開催されたがその都度、多くの来場者を集めるのは若くして亡くなったとされる<少年王>へのロマンだけではないだろう。
*1868=慶応4年 幕府軍と薩摩などの新政府軍が激突する「鳥羽・伏見の戦い」が起きた。
この日、早朝から幕府軍と薩摩軍を中心とする新政府軍とが京都南部の鳥羽街道付近でにらみ合いを続けていた。午後5時ごろ「京七口」のひとつ鳥羽口から突如砲声が轟いた。呼応するようにすぐ東南の伏見でも砲煙が上がる。いずれも新政府軍が放った砲弾で、新政府軍5千に対し、幕府軍は1万5千と数の上では優位だったがこの夜に続き翌日の淀、5日から6日の橋本の戦いでも大敗してしまう。
新政府軍は圧倒的な重火器を装備しており朝廷からの「錦の御旗」を掲げていたのと長州・土佐など西日本の諸藩の軍が加わったことで優位に立った。大坂城にいた徳川慶喜は6日に大阪湾に停泊していた幕府の軍艦「開陽丸」で江戸へ退却、京阪は新政府軍の支配下になった。幕府軍に加わった新撰組は幹部の井上源三郎らが戦死するなど半数近くを失った。
敗走する幕府軍を追って「錦の御旗」を掲げた新政府軍が江戸での上野戦争や会津戦争、箱館戦争での五稜郭開城まで続く一連の「戊辰(ぼしん)戦争」の発端となった記念すべき戦いとなった。
*1906=明治39年 婦人雑誌第1号として実業之日本社から『婦人世界』が創刊された。
大衆作家の村井弦斎を編集顧問に迎え、文芸欄は河井酔茗が詩を、与謝野晶子が短歌を担当した。料理などの実用記事のほか家庭婦人向けの教養記事が売り物だった。創刊号には「牛乳育児法」「歌がるた必勝法」など盛りだくさんで皇族女子の教育係だった下田歌子らの「婦人座右の銘集」が<大附録>として付いて定価は15銭だった。
書店に対してそれまでの「買い取り制」ではなく返品自由の「委託販売制」を敷いたことで販売部数を伸ばし臨時増刊号も出される人気誌となった。
*1951=昭和26年 NHKラジオで「第1回紅白音楽合戦」が放送された。
現在は大みそかに行われている「紅白歌合戦」の前身だが、意外にも<正月の特別番組>として午後8時からたった1時間だけだった。紅白各7人の歌手が出演、紅組は渡辺はま子がキャプテン、司会を女優の加藤道子、白組は藤山一郎、藤倉修一アナがそれぞれつとめた。会場は内幸町にあったNHK東京放送会館のいちばん広い第1スタジオに300人を招いて生放送で行われた。
紅組トップバッターは初出場の菅原都々子『憧れの住む町』、白組は鶴田六郎『港の恋唄』でスタートした。参考までに他の出場歌手と歌を紹介すると紅組は、暁テル子『リオのポポ売り』、菊池章子『母紅梅の唄』、赤坂小梅『三池炭坑節』、松島詩子『上海の花売娘』、渡辺が『桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン』。白組は林伊佐緒『銀座夜曲』、近江俊郎『湯の町エレジー』、鈴木正夫『常磐炭坑節』、楠木繁夫『紅燃ゆる地平線』、東海林太郎『国境の町』、大トリの藤山が『長崎の鐘』だった。優勝は白組が飾ったが小さなカップが贈られただけだったという。選曲に三池と常磐という東西の炭坑節がそろっているのもNHKらしくて微笑ましい。
1953=昭和28年の第3回からはテレビの実験放送も始まった。ところが第4回はラジオとテレビでの公開同時中継でやることになって会場探しでひと苦労した。当時はまだNHKホールはなく、有楽町にあった日本劇場(日劇)と交渉したら正月は公演ですべて埋まっていて空きがあるのは大みそかだけだったので仕方なく押さえた。たった数日のずれではあったがこの年は正月と大みそかに2回も「紅白」が楽しめたわけだ。間にニュースをはさむものの堂々4時間半の<大イベント>になった現在からは隔世の感があります。