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“1月8日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1885=明治18年  陸軍参謀本部測量課が改定した地図に初めて「♨」の温泉記号が登場した。

地図を作製するにあたって参考にしたのはフランス砲兵学校が考案した小地図学とされるが4年前に作成した時には温泉マークはなかった。当時は湯気が3本の「♨」が温泉、2本が冷泉と区別されていたがヨーロッパからの旅行者がこれを見て「貴国のこの♨マークは一見して誰にでもわかる。すばらしい!」と案内人に絶賛したという記録が残っている。

以前、訪れた群馬県の磯部温泉には碓井川沿いの公園に「温泉記号発祥の地」の石碑が建てられていた。江戸時代の境界争いを記録した地図に「♨」の記号が描かれていたことからという。現在の「♨」記号と湯気の本数は同じ3本だが長さが1.5倍ほど長い。「湯気が高く上がるということは当時の源泉は現在より泉温が高かったのか」などと思ったものだ。

ちなみに現在の国土地理院の「5万分の1」や「2万5千分の1」の地形図ではいずれも「温泉・冷泉」で統一されている。泉温変化などで紛らわしいケースがあるからだろう。

*1875=明治8年  横浜郵便局で外国郵便の開業式が行われた。

それまでは横浜外国人居留地にあった<アメリカの郵便局>が業務を行っていたのを廃止して日本政府に移管した。アメリカ・オハイオ州出身のサミュエル・M・ブライアンの粘り強い働きによりこの年1月1日付で郵便交換条約を締結しての業務開始となった。

これを記念して1月8日は「外国郵便の日」となった。

*1934=昭和9年  京都駅構内の跨線橋で入団兵見送りの家族らが転倒し死者77人を出した。

広島県の海軍呉海兵団へ入団する新兵715人と付添人約300人が乗る臨時列車を見送ろうと朝早くから家族や在郷軍人会、青年団ら数千人が詰めかけていた。発車予定は午前10時22分だったが京都だけでなく富山、金沢、福井の北陸地方と三重県津の各連隊管内からの入団者が合同で出発するため構内は立錐の余地がない混雑だった。

危険を感じた駅員らは群衆を中央口に面した1番ホームから列車が出る第3ホームへ移動させようとした際に跨線橋の階段で転倒者が出てその上から100人以上が折り重なった。死者の中には入団予定の2人と家族の見送りに来ていた新興シネマの女優・原静枝がいた。さらに74人もが重軽傷を負った。

大阪毎日新聞は1面のトップ記事で
「京都驛空前の大惨事、死者実に七十六、負傷五十七」「呉海兵団入団兵見送の大群衆、陸橋に殺到将棋倒しとなる」
の大見出しで報じている。死者数に差があるのは重傷者の1人が亡くなったからだろうが、けが人もその後の集計でさらに増えている。

東京朝日新聞は現場近くに居合わせた記者によるレポートを掲載している。
「事故発生後、憲兵や警官が群衆を構内から出して救出活動を実施、死傷者はプラットホームや駅員休憩所に並べられた。在郷軍人たちは被害者に水を掛け、人工呼吸を行うなどで協力した」。
さらに臨時列車が大阪駅停車中に入団者に取材した目撃証言は
「ブリッジ(跨線橋)付近のホーム上は大根を押し重ねたように人が積み上がった地獄絵そのもの。物凄い叫びはまだ耳に残っています」。

女優の原は当時20歳、東京出身で2年前に新興キネマに入り『太陽の娘』でデビュー、『ふらんす人形』のダンサー役を演じた。

それにしても大惨事にもかかわらず臨時列車は予定通り出発したということだろう。見送りの家族が事故に巻き込まれていたり、怪我の詳細がわからないのに出発せざるを得なかった入団者たちの思いはいかばかりだったか。

*1941=昭和16年  東条英機陸将が陸軍始の観兵式で「戦陣訓」を示した。

日中戦争が長期化するなかで軍隊内の規律の緩みが次第に顕著になってきたことが背景にある。「軍人勅諭」の精神を<具現化>したものとされた。

「陣地は死すとも敵に委すこと勿れ」
「生きて虜囚の辱を受けず死して罪禍の汚名を残す勿れ」

の徹底が幾多の貴重な命を死に追いやった。あえてふりがなは付けないでおく。

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