“1月9日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1933=昭和8年 伊豆大島・三原山火口から23歳の女学生が投身自殺した。
東京の実践高等女学校専門部国文科3年の真許三枝子だったがこのときは誰にも気付かれなかった。同行した一年後輩の富田昌子に「5年間は他言しないで」と言い含めて下山させていたからである。続いて翌2月12日に富田の同級生の松本喜代子が同じ場所から投身自殺した。松本は遺書を残しており学校側が名前のあった富田に事情を聞いたところ両人の自殺への同行が分かった。死にあこがれていた松本が富田に相談して<三原山の一件>を聞き出し、自分も案内して欲しいと依頼されたことを告白した。
同じ学校生の連続自殺が明らかになるとマスコミは猟奇事件として富田を「死の案内人」「死の立会人」「三原山に死を誘う女」とセンセーショナルに書き立てた。自殺を止めずにその案内までしていた富田は退学処分を受け間もなく病死した。<不幸な三乙女の死>が報道された反響はすさまじかった。三原山は自殺の名所になり直後の18日には2人、26日に1人、27日には3人と自殺者が発生した。前年には自殺9人、未遂30人だったのがこの年は966人が自殺を図り、うち134人が死んだ。
当時、新聞が好んで使ったのは「自殺のメッカ=聖地」という見出し。ご存知、サウジアラビアにあるイスラム最大の聖地で多くの巡礼を集める。ところがサウジアラビア政府が1980年に英語名をメッカからマッカに変えたため「〇〇のメッカ」という表現も<死語>になりつつある。預言者マホメットもムハンマドへ、時代とともに言葉=呼び名も変わる。自殺の方法もそうかもしれない。
*1924=大正13年 民芸運動の創始者・柳宗悦が<幻>だった木喰(もくじき)上人の木彫仏を発見した。
木喰は江戸時代後期に甲斐(山梨県)で生まれた仏教行者で北海道から九州まで全国をくまなく遍歴し訪れた寺院に一木造りの仏像を奉納した。当時、木喰より1世紀前の円空は知られていたが木喰は無名に近かった。荒削りで野性的な作風の円空仏に比べると木喰仏は微笑を浮かべた温和な表情から「微笑仏」が特色とされる。
柳は同じ山梨出身で、収蔵家を訪ねて李朝陶磁器の調査中に木喰像3体を見つけ芸術性の高さにうたれた。柳はその後も木喰仏の研究を続けこの年だけで300体を発見した。朝鮮陶磁器の美を見つめ続けたことで磨かれた「真の美」を見る目がもたらした柳の<直感>でもあった。『民藝四十年』(岩波文庫)に「その口許に漂う微笑は私を限りなく惹きつけた。尋常な作者ではない。異数な宗教的体験がなくば、かかるものは刻み得ない」と書いている。
*1968=昭和43年 東京オリンピックのマラソンで3位に入賞した円谷幸吉が自殺した。
円谷は1962=昭和37年に自衛隊体育学校に入校した。入校当初は腰痛に悩まされていたがレースに復帰、10月の日本選手権の5千メートルで歴代二位の好成績を出したことでオリンピック強化選手になった。当初は1万メートルで出場する予定だったが中日マラソンで初マラソンに挑戦、続く毎日マラソンで2位に入ってマラソンでも代表に選ばれた。
オリンピックでは初日に行われた1万メートルで6位に入賞し日本男子では戦後初の入賞となった。そしてマラソン本番、日本期待の君原らが脱落するなかエチオピアのアベベが独走、イギリスのヒートリーにゴール寸前で抜かれたものの3位に入り銅メダルを獲得した。これが陸上競技では日本唯一のメダル獲得となり、1万メートルの入賞と合わせて「日本陸上界を救った」と称賛された。
しかし栄光に二度と輝くことはなかった。その後は相次ぐ不調、腰痛の再発で手術したが陸上に復帰できるには程遠く、婚約も破談になるなど追い込まれた末に体育学校宿舎の自室において剃刀で首を切って自殺した。遺書には「父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿 もちも美味しうございました」から始まって兄弟らと食べた寿司、ブドウ酒、リンゴ、しそ飯、南蛮漬け、ブドウ液、養命酒、モンゴイカなど食べ物や飲物の思い出が記されそれぞれに「美味しうございました」と添え、最後に「父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許しください。気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。幸吉は父上様母上様の側で暮しとうございました」と結ばれていた。自衛隊体育学校所属、27歳。最終階級は二等陸尉だった。
川端康成は『円谷幸吉選手の遺書』で「繰り返される<おいしうございました>といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる。そして遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、かなしいひびきだ。千万言も尽くせぬ哀切である」と評した。当時の関係者らが<ノイローゼによる発作的自殺><選手生命が終わったのを自身で認められなかったことからの敗北>などと論評したのに対し三島由紀夫は『円谷二尉の自刃』で「この崇高な死をノイローゼなどという言葉で片付けたり、敗北と規定したりする生きている人間の思い上がりの醜さは許し難い」と強く批判した。
文壇師弟の円谷を悼む気持ちや思いが伝わる。