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“1月16日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1605年  セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』前篇がマドリードで刊行された。

当時流行していた「騎士道物語」を読み過ぎて妄想の虜になった下級貴族の主人公。自らを伝説の<騎士>と思い込み、痩せ馬ロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引き連れて旅に出かけるご存じの物語である。

主人公の名はドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと長ったらしいが「ラ・マンチャ地方の騎士・キホーテ卿」ほどの意味で、旧態依然としたスペインへの批判や比喩が込められているとされる。槍を構えて突進する風車はオランダをからかっているとも。「最初の近代小説」ともいわれ、年老いてからも夢や希望、正義を胸に遍歴の旅を続ける<男のロマン>と批判精神が受けてたちまち大評判となった。

発売した年だけで6版が印刷され、その後は英訳や仏訳が出された。世界中での出版部数を合わせると聖書に次ぐと言われるまさにベストセラー小説・ロングセラー小説である。2002年にはノーベル研究所と愛書家団体が発表した世界54カ国の著名な文学者の投票による「史上最高の文学百選」で第一位を獲得した。

10年後には後篇が刊行されて同じように大ヒットするが、セルバンテスは税金横領の罪で投獄された前歴もあって仕事には恵まれず大家族を養うために生活に困っていたから前篇と同じく版権を売り払っていた。つまり増刷が繰り返されてもその恩恵はまったく受けず、困窮のうちに没した。猪突猛進な行動がなかなか報われない主人公みたいですなあ。

*1911=明治45年  白瀬矗(のぶ)中尉が南緯78度地点に到着して「開南湾」と命名した。

わずか199トンの「開南丸」で南極へ向かって芝浦埠頭を出航したのは11月29日だった。航海途中にほとんどの犬を寄生虫症で失い、資金不足でオーストラリアのシドニーで立ち往生したりしたが隊員が日本に帰国して資金と樺太犬を運んだことでようやく出航、何とか南極にたどり着いた。

この湾からは上陸できなかったのでロス棚氷の「クジラ湾」に上陸、白瀬中尉以下4人が犬ぞりで南緯80度5分、西経165度37分の地点まで進んだ。白瀬らは一帯を「大和雪原」と名付け隊員全員で万歳三唱、遠征資金を寄付してくれた人々の名簿を埋め、日章旗を掲げて引き返した。

白瀬隊は2月4日に南極を離れ、ニュージーランドのウェリントン経由で帰国する予定だったが出発間際に天候が悪化して海は大荒れとなった。仕方なく連れてきた樺太犬21頭を置き去りにせざるを得なくなったが樺太出身のアイヌの2隊員からは猛抗議を受けた。事実、彼らは帰国後に犬を大事にするアイヌの掟を破ったとして裁判にかけられたという。白瀬自身もこうした隊の内紛が修復できず、同調者数人とウェリントンからは別の汽船で帰国した。

しかも戻ってみるととんでもない事態が明らかになる。白瀬たちの遠征の間に後援会が資金を遊興飲食費に使ってしまっていたのだ。日本中が歓喜に沸き皇太子との謁見や歓迎式典が一段落したあとで判明したから白瀬は数万円の借金を負うことになり、隊員の給料すら払えなかった。白瀬は家財を売却し、転居に次ぐ転居を重ね、南極での実写フィルムを抱えて娘と日本はもちろん台湾、満州、朝鮮半島を講演して回り20年以上かけて渡航の借金を弁済した。

1946=昭和21年9月4日、愛知県豊田市の次女が間借りしていた仕出し料理屋の一室で腸閉塞のため85歳で亡くなった。家族の窮状を見かねた寺の住職が引き取って葬儀を行った。栄光のあとに終生ついて回った借金返済という苦難の長い道のりがようやく幕を閉じた。

*1909=明治42年  「世界の美人投票」で末広ヒロ子が第6位になったと報知新聞が報じた。

昨年、シカゴ市のトリビューン新聞社(後のシカゴ・トリビューン紙か)に委嘱して世界一の美女の投票を募り、我が国にも委嘱により時事新報社に於いては日本一の美人投票を為し、其の結果末広ヒロ子(現・野津家夫人)当選したるが、同社にて各国より集いたる写真にて鑑定を乞い、其結果を発表したるが、日本一の美人は世界美人の第六位を占めたり。即ち以下の如し。
第一、 北米合衆国、マクエライト・フレ嬢
第二、 加奈陀(カナダ)、バイオレット・フッド嬢
第三、 瑞典国(スウェ―デン)、セーン・ランドストーム嬢
(中略)
第六、日本、末広ヒロ子嬢
行われたのはどうやら「世界写真美人コンテスト」のようだ。<旧姓・末広ヒロ子嬢>がいつ野津家に嫁いだのかは書かれていないが、それぞれの写真がないのは残念!

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