“1月20日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1969=昭和44年 アメリカ映画『トラ・トラ・トラ』の制作から黒澤明監督が突然解任された。
米・20世紀フォックス社がノルマンディー上陸作戦を描いた『史上最大の作戦』に続く70ミリのカラー大作として企画した戦争映画で、日米双方の視点から真珠湾攻撃を描こうとするものだった。総予算1500万ドル、アメリカ側がリチャード・クライシャー、日本側が黒澤明の両監督。福岡県北九州市の芦屋海岸には2億円以上かけた全長210メートルもある連合艦隊の旗艦の戦艦「長門」と航空母艦「赤城」の実物大のオープンセットが作られ、12月からは京都・太秦の東映京都撮影所でも撮影が行われる予定と発表されていた。
芦屋海岸とは別に北海道の岩内にもロケセットが組まれた。ハワイ攻撃に向かう巡洋艦がタンカーから洋上で給油されるシーンを撮影するためである。アリューシャン列島からアメリカの視線をそらすための日本海軍の作戦は、荒れ狂う北洋が舞台のためロケは北海道の11月の寒さが選ばれた。ところがここで黒澤が倒れた。過労と強風、寒さのためだったが幸い数日間で回復した。しかし京都でも12月11日に再び体調を崩し撮影はストップしてスケジュールは大幅に遅れた。
そんななか1月中旬には三船プロが制作に乗り出すというニュースが流れ、山本五十六連合艦隊司令長官には三船敏郎自らが主演すると報道された。そしてこの日、黒澤プロのあった東京プリンスホテルで当の黒澤プロの幹部が記者会見して黒澤が<降ろされた>ことを発表した。芸能ニュースとしてはかってない大事件だった。黒澤の健康問題、完璧主義の黒澤流が通らなかった、黒澤が「素人でやりたい」と主張したキャスティングの問題、万事が合理主義のアメリカシステムと日本流というか黒澤流を貫いた黒澤との対立・・・さまざまな噂が飛び交った。その後、20世紀フォックス社側も黒澤降板を公式に発表したが理由は単に「病気のため」とされた。
アメリカ側の宣伝担当だった人物の「ミスター・クロサワは世界の偉大なる監督だ。10億円もの金を消費して7分間の映画を撮った。最高の製作費の記録だよ」という皮肉も残る。だが黒澤は最後まで真意は語らなかった。翌年公開されてヒットした『トラ・トラ・トラ』について報道陣には「見ていないし、見たくもない。済んだことで蒸し返されるのはもうたくさん。忘れてしまったこと」と間接的に伝えただけだった。山本連合艦隊司令長官役に起用されたのは山村聰で黒澤が選んだキャストとも三船とも違っていた。
*1709=宝永6年 「生類憐みの令」の廃止が布告された。
10日に死去した徳川5代将軍綱吉の遺言は「生類憐みの令は廃止せぬよう」だったが、将軍を継ぐ家宣は棺の前で撤廃はやむを得ないと告げ、廃止の布告を出した。愛護の対象は犬、猫、馬、牛に限らずその他の鳥獣魚貝など全般に及んでいた。釣り船の禁止、猿回し、蛇つかいなど生き物を見世物にすることや亀、鯉、金魚の飼育が禁じられた。
前半の治世は評判が良かったが綱吉は男子が育たなかった。それを生母・桂昌院が帰依した僧・隆光が「将軍は戌年生まれ。男子の子宝に恵まれるには戌=犬の愛護を進めるのが良い」ともっともらしいことを吹き込んだものだから<マザコン>の綱吉としては極端に走ったのか。あるいは<社会に仁愛の精神を養うべし>がいつの間にか生類にまでと拡大した。それを増幅して伝え、実行する側近が多くいたから中野の野犬収容施設にしても江戸や関東の村々の負担になるほど肥大しまさに<犬公方ここに極まる>ということになった。家宣が葬儀の済んでもいないのに遺言に背いてまで「生類憐みの令」を廃止せざるを得なかったのを裏返せばそれほど民の不満が大きかったからだ。
*1891=明治24年 帝国議会議事堂の衆議院から出火、貴族院に延焼して全焼した。
議事堂はドイツ人建築家アドルフ・ステヒミューラーと臨時建築局技師吉井茂則の設計で現在の経済産業省の敷地に建てられた「第一次仮議事堂」で、第1回帝国議会招集前日の前年11月24日に竣工したばかりだった。出火は深夜午前零時半過ぎで総工費25万円をかけた木造洋風2階建ての建物は数時間で焼け落ちた。おりしも会期中だったため貴族院は旧鹿鳴館の華族会館、衆議院は旧工部大学校の東京女学館を借りて急場をしのいだ。
出火原因が漏電と発表されたため<電気は危ない>という噂が広まり、宮城内はアーク灯以外の夜間の電灯使用を差し止める騒ぎになった。これが官庁や会社、工場に波及して怖がった民家が契約解除を申し入れるなどで電灯会社は安全点検と説明に追われた。
*1905=明治38年 米財閥の御曹司ジョージ・モルガンと祇園の芸妓・お雪が結婚式をあげた。
お雪の本名は加藤ユキ。現在の数億円に相当する当時の4万円の身請け金が新聞で報道されて話題になりました。付けられた呼び名が「モルガンお雪」。その波乱万丈の人生は1951=昭和26年、帝劇ミュージカルスでタカラジェンヌの越路吹雪が主演して人気を博した。