“1月22日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1905年 ロシアの首都サンクトペテルブルグで「血の日曜日」の惨劇が起きた。
集った群衆に軍隊が発砲して3千人以上が死傷した事件である。日露戦争の苦戦が続いていたなかで、生活の困窮を訴える労働者10数万人が皇帝ニコライ2世の住む宮殿・冬宮前の広場を埋めた。首都では宮殿より高い建物を建てることは禁じられていたから宮殿は陰気な冬空を背景に広場を埋めた群衆を不気味に見下ろしていた。行列は聖像と皇帝の肖像を掲げて「神よ、皇帝を守りたまえ」と口々に叫びながら行進してきた。雪の降り積もるなかにもかかわらず老人や女性、子どもも多かった。彼らは窮状を皇帝に訴えてそのお情けにすがろうとしたわけで抗議というより嘆願だった。
革命の筋書きとしては「人民は戦争の即時停止、労働者の劣悪な待遇の改善、立憲政治実施などを求めて立ち上がった」とされるが、彼らが望んだのはパンを焼く小麦粉だったし、いくばくかの肉や野菜だった。叫び声は宮殿の高い壁の向こうに届いたかに見えたが皇帝は寒さを避けて別宮に出かけ不在だった。そして突然、政府によって動員されていた軍隊の銃が火を噴いた。逃げまどう群衆に容赦ない銃弾が浴びせられ聖なる日曜日の広場は惨憺たる血の海に変わった。
しかもニコライは「彼ら軍隊を許す」と発表したから事件をきっかけに労働者だけでなく兵士の間でも革命運動が活発化して全国の都市でソヴィエト=労兵協議会が結成された。惨劇を聞いた黒海艦隊では戦艦「ポチョムキン」のウクライナ人水兵らが反乱を起こした。これは同じ艦隊の他の艦によって鎮圧され、同調した艦も指揮官により座礁させられた。革命の火はさらに周辺部へと波及していく。黒海沿岸のオデッサやドニエプル川の河港都市・キエフにも広がり、1917年の「10月革命」まで続く<前史>となった。
*1916=大正5年 初の軍用気球船「雄飛」が所沢―大阪間の長距離飛行に成功した。
鉄骨フレームに絹羽二重を三重にしてゴム引きした機体は全長85メートル、幅15.5メートル、高さ22.5メートル、総重量は8.1トンで、ずんぐりした形だったから見上げた人たちは「まるで空に浮かぶクジラのようじゃ」と評した。ドイツ製のマイバッハエンジンで推進し、巡航速度は時速57.1キロ、12人を運ぶことができた。
実験飛行は前日の21日午後1時30分に益田済句兵少佐ら3人が乗り組んで所沢飛行場を飛び立ち、途中、豊橋で給油して22日午前5時10分に大阪に着いたが実質所要時間は9時間10分だった。ただし帰途はエンジン不調のため機体を分解して貨物列車で輸送した。2月には所沢と青森・弘前を往復、翌年7月には所沢―仙台間の夜間往復に成功したがこれをもってあっさりと廃止が決まった。軍用に使用するにはやはり速度や敏捷性に難点があったのだろうか。
*1943=昭和18年 「今日、大根おろし1回分位が3日分の野菜の配給量だと聞く」と家事評論家の吉沢久子はこの日の日記に書いた。
「都会に残る私たちの月給は統制令で抑えられ、税金は上がる。闇で物を買う能力はなく、しかし闇ははびこる一方である。右も左も真っ暗闇」と続けている。
すでに1年前から戦時体制による「切符制」がはじまり衣料を買うのも点数切符になった。市居住者はひとり当たり年間100点、町村は80点まで。オーバー男子物50点、女子物40点、ワンピース15点、ワイシャツ12点、パンツ、ズロース各4点、タオル3点。せめて不満のはけ口を日記に書くくらいしか展望のない毎日が続いた。
*1090=寛治4年 白河上皇が熊野三山に参詣した。
紀伊半島の熊野へは京の都から往復およそ1ヶ月、170余里(約650キロ)とされる。下鳥羽から舟で淀川を下り摂津国渡辺に上陸、南に行くとやがて熊野街道の起点・窪津王子に至る。ここから有田、湯浅、田辺と海沿いの道をたどり山中の道、中辺地(なかへち)へ踏み入り、まず熊野本宮大社に参拝する。そのあと熊野川を舟で下り新宮大社、那智大社を巡って那智の滝の背後にそびえる大雲取山、小雲取山の難路を辿って再び本宮に出て中辺地、熊野街道を都へ戻っていく。
難路の峠などは省略して書いてもこれだけの道のりだからまさに難行苦行だった。とくに天皇や上皇の参詣は「熊野御幸」と呼ばれ従う一行も多かったが駕籠に乗る貴人も体調を崩したとされるから途中で倒れてしまう従者も多かったろう。後の後白河法皇の33回には及ばないが白河上皇は法皇時代も含め10回も御幸している。この日、熊野本宮に参詣した上皇はよほど感激したのか紀伊の所領の田畠を寄進しただけでなく初めて「熊野三山検校」を置いた。
後鳥羽上皇に随行した歌人・藤原定家は「山川千里を過ぎて遂に奉拝す、感涙禁じ難し」と日記の『明月記』に書き残している。やがて熊野詣では庶民の間にも広まり、あこがれになっていく。蟻の行列のように熊野への道をたどる人々を「蟻の熊野詣」と呼んだ。