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“1月28日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1893=明治26年  酒田の料亭での新年会が不敬罪に問われるという「相馬屋事件」が起きた。

山形県酒田は最上川河口に開けた日本海有数の港町で商都でもある。地元有力者らの新年会は日和山公園の入口に江戸時代から「相馬屋」として続く酒田いちばんの料亭・相馬楼で開くのが恒例だった。この年は日清戦争を控えて米価が高騰し米商人はにわか成金となるなど羽振りが良かったこともあって<一風変わった趣向で>開くことになった。ひと月前に案内された回状には「宮中風大宴相催候に付き大礼服着用相馬内裏へ参朝相成度し」とあった。

新年会を「宮中新年会」の趣向で開こうと計画したわけだ。<天皇>が当時の県議で廻船問屋越後屋の主・大泉長次郎、<皇后>には美人の誉れ高かった相馬屋の姉娘、<女官>は芸者衆が扮することになった。天皇、大臣、参議らが着用する大礼服や皇后、女官たちの衣裳はわざわざ東京や京都から取り寄せた。

いよいよ新年会当日、会場の二階大広間には菊の御紋を染め抜いた幕がめぐらされていた。県会議員、町会議員、地主、廻船問屋、米問屋などの面々は別室で着たこともない衣装に身を包んで上がってきた。出席した豪商ら17人。それぞれが一見しただけでは分からないほど<役>になりきっていた。全員が揃うと<天皇>の大泉が「諸卿早速の参内大儀なり」と声をかけ、一同敬礼、続いて君が代が演奏されて「宮中風大宴会」が華やかに始まった。

もちろん<他言無用・極秘>だったがこの話がどこからか漏れてしまった。2月4日に酒田署に全員が逮捕投獄され、町中が大騒ぎになった。容疑は「不敬罪」、あわてた留守宅では急遽、東京から何人もの有能な代言人=弁護士を雇って対応した。代言人の考えた主張は「雛祭りごっこ」だった。「天皇陛下の真似をしたなど滅相もないことです」と言い続けた。

ようやく27日に出された結論は「免訴放免」だった。当局としても事件がこれ以上大げさに報じられてはまずいと思ったのだろうが明治の<コスプレ新年会>高くついた。

*712=和銅5年  太安万侶の『古事記』が完成、元明天皇に献上された。

イザナミ・イザナギの建国神話から説き起こされる『古事記』は日本最古の歴史書で江戸時代に本居宣長による全44巻の『古事記傳』が研究の古典とされる。戦前・戦中の富国強兵策の中で「正史」とされた歴史は戦後に見直しが始まる。原本はすでになくすべて写本なので偽書説だけでなく太安万侶も<幻>ではないかとされたが1979=昭和54年1月、奈良市此瀬町の畑から墓誌銘が発掘されて実在が裏付けられた。

須佐之男命(すさのおのみこと)が櫛名田比売(くしなだひめ)との結婚に詠ったという
  八雲たつ 八雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を
は<和歌のはじまり>とされ倭建命(やまとたけるのみこと)が東征で故郷を想って作ったとされる
  倭(やまと)は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭しうるわし
はつとに有名だからご存じの方も多いのでは。

*1932=昭和7年   日本人僧侶が襲撃されて死傷したのをきっかけに「上海事変」が起きた。

日が暮れて間もなくの黄浦江(ホアンプー)北の東西両本願寺に近い共同租界。日本山妙法寺の日蓮宗僧侶らが「うちわ太鼓」をたたき南無妙法蓮華経をとなえて托鉢をしていた。そこをいきなり中国人らに襲われ1人が死亡、2人が重傷を負ったのがちょうど10日前の18日だった。日本政府は中国側に厳重抗議したが上海の日本人居留民は納得せず海軍陸戦隊の増派を求めた。上海には当時、陸軍は駐屯していなかったからだが居留民の心配は的中する。最初の武力衝突が28日の夜、租界北西の北四川路付近で起きた。動いたのは中国の第十九路軍で海軍陸戦隊との交戦が始まった。

新聞各紙は「上海28日発連合至急報:我陸戦隊はいよいよ戦闘を開始した。機関銃の音は豆をいるごとく租界に聞えている――」と報道したが、戦闘が予想外に長引いたため陸軍の1個師団に加え、2月上旬にさらに2個師団を派遣してようやく制圧した。

ところが戦後になって最初の僧侶襲撃事件は日本側が<仕組んだ>謀略だったことが判明する。前年9月に満州事変が起きていた。満州をどうしても独立させたかった関東軍は列強の目をそらすため上海での<陽動作戦>を計画した。当時、上海駐在公使館付の参謀本部補佐官・田中隆吉少佐が男装の麗人・川島芳子を通じて排日急進勢力に工作を依頼したという事実を当の本人が発表したことで公知の事実になった。

そういえば満州事変のほうも「侵略戦争の裏に謀略あり」でした。上海事変でもうひとつ<美談>に仕立てられたのが「爆弾三勇士」。3兵士が敵の鉄条網を突破するために抱えて突っ込んだ爆弾の導火線が本来必要な長さの半分だった<ミス>だったと。これも田中大佐の後日談で知った。事実は小説よりなお奇なり!

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