“1月29日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1872=明治5年 明治新政府として初めての「人口調査」が実施された。
集計結果は男性1,679万6,158人、女性1,631万4,667人、合計3,311万825人だった。では江戸時代はどうだったのかというと幕府が1726=享保11年に実施した結果では全国の士農工商の民は総計2,655万人とある。この中には京都の公家や幕藩の武士階級、全国の神官・僧侶、被差別民は含まれていないからこれらを全人口の10%とみると2,920万人が当時の推計人口ということになる。
一世紀半を経ても人口に大差なかったのは封建支配が徹底していたことや飢饉が頻発した生産力の低さ、衛生状態の悪さがあげられる。明治の元勲のひとり、木戸孝允が喝破したことで有名な「乃公(だいこう)出でずんば三千万の蒼生を如何せん」はこの調査データが頭にあっての発言であろう。乃公は<吾輩>で蒼生は<人民>のことだから、この自分が出ていかなければ世の人民はどうなるであろうか、くらいの意味である。普通なら大言壮語に聞えそうだが剣豪・桂小五郎として幕末・維新を駆け抜け、改名して明治天皇への「五箇条の御誓文」を構想した人物の発言と思うとそうかと思える。
駐日英国公使をつとめた知日派のアーネスト・サトウは「彼は軍事的、政治的に最大の勇気と決意を心の底に持った人物だが、その態度はあくまで穏和で物柔らかであった」と評している。乃公発言から間もない1877=明治10年5月26日に西南戦争での勅使として西郷への鎮撫使を引き受けるために明治天皇と出張した京都で没した。44歳、戦争の行方というか盟友・西郷の最後は知らないまま逝った。
少しばかり脱線したがこれを記念して1月29日は「人口調査記念日」となっている。
*1891=明治24年 「髪結い、仕立物が東京下層婦人の主な内職」と朝野新聞が報じた。
「女髪結いは一日働いても10銭内外の賃金で飯代がやっとという状態。これ以外では洗い張り、仕立物で木綿の綿入れの仕立て賃は下等10銭から上等14銭まで、袷(あわせ)は8銭から10銭、単(ひとえ)物は7銭から9銭だった。一方、洗濯は冬物5銭、夏物は2、3銭で、仕立ては手の早い婦人なら一日に単物2枚や袷1枚、綿入れは3日に2枚は仕上げられる」と細かい。さらに当時最も忙しかったのは「紀州ネル単物」の仕立てで問屋がすべて裁ち、縫うだけが仕事だった。1枚が2銭5厘から3銭。木綿糸の<荒縫い>なので手の早い人なら1日4枚、遅い人でも2枚は引き受けることができたと詳しく紹介している。
最後に「但し、以上の仕事にいつもありつけたわけでは決してない。不景気になれば途端に頼み手が少なくなり、あぶれた」と。
*1016=長和5年 藤原道長の孫、皇太子で9歳の敦成親王が即位して後一条天皇となった。
敦成親王は長女・彰子が一条天皇に嫁いで生んだ子=孫だったから「外祖父」となった道長は待望の摂政の地位についた。次女、三女も入内させていたから「一家立三皇后、未曾有なり」と評され、権力の絶頂を極めた。
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
と詠んだのはこの2年後だった。
*1906=明治39年 大阪麦酒・日本麦酒・札幌麦酒の3社が合併して大日本麦酒が誕生した。
大阪麦酒はアサヒビールの前身、日本麦酒は恵比寿ビールを製造、札幌麦酒はサッポロビールの前身といったほうがわかりやすいだろう。背景には厳しい市場競争で三井系の日本麦酒の経営が厳しくなったため三井物産出身の馬越恭平社長が中心になって「大合同」をまとめたとされる。とはいっても互いが競争相手だったからまず内閣に働きかけて国内の過当競争排除と資本集中による財務強化、輸出促進などを柱とする<合併勧告>を引き出すなどあくまで「政府の指導により」という形で進めたのもうまい。
しかも大阪の鳥井駒吉、札幌の渋沢栄一の両社長が固辞したのを受けて新会社の社長に納まって「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」と人心の和を言い続けてとうとう<日本のビール王>と呼ばれるのだからただの策士じゃないですな。
合併時のシェアは79%になったから向かうところ敵なし。商標は各社のをそのまま使用、品質価格も従来通りだから今風にいえば<ホールディング会社>を作ったようなものか。たとえばアサヒビールは「一等国の一等品アサヒビール」なんてラベルだったわけです。第一次世界大戦の戦後処理として日本がドイツ租借地だった中国・青島を管理下に置いたらドイツ資本で建設された青島ビールの経営権を大日本麦酒が取得して「自社工場」にしたから中国大陸でも満州や朝鮮半島でも兵隊サンは<なじみのビール>が飲めました。