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“2月1日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1953=昭和28年  東京地区のNHKで日本初のテレビ本放送が始まった。

午後2時、モノクロ画面に「NHK東京テレビジョン開局」のテロップが映し出され、志村正順アナウンサーがやや緊張した声で「JOAK-TV、こちらはNHK東京テレビジョンであります」と口火を切った。番組は千代田区内幸町の放送会館で開かれた開局祝賀式の模様から始まった。古垣鉄郎会長が「本日は、日本文化史上に画期的な1ページを開きます」と力強く宣言、来賓の挨拶のあと菊五郎劇団の『道行初音旅』、ニュース映画、藤原義江・太田黒元雄・松内和子による『歌劇よもやま話』と続いた。初日の放送は午後9時までだったがその後は1日4時間だけの時代が続き、放送の最後に<日の丸の映像>が出ると「さあ、寝ようか」となったのである。

受信料は月額200円、テレビ受像機の値段は大卒初任給が平均1万5千円の当時、14インチで18万円だったから<年収>に相当した。このため本放送スタート時の受信契約数はわずかに866台で「街頭テレビ」にはどこも大変な人だかりができた。画面が小さかったため後ろのほうはほとんど見えなかった。それでも負け惜しみではなく「音だけでも聞えたから良かった」という妙な感想が新聞に載った。作家・山口瞳は『漫画読本』(文藝春秋、1969=昭和44年6月号)の「まんどく大世界史365」にこの日を「諸悪の根源となった記念すべき日」としている。「ほんとの落語家は食えなくなり、相撲は6場所制になり、小説が読まれないようになる」と。

小説のほうは「テレビドラマにとって代わられるから」ということだろうがNHKで初の連続ドラマは今日出海脚本の『幸福への階段』で30分、計13回もの。1時間ドラマのほうは八木隆一郎脚本の『結婚記』だった。

山口は「巨人、巨泉、巨富を得る。ナキチョビレ」と続けるがこれを書いたのはテレビ本放送開始から16年目だった。白黒テレビに代わってカラーテレビがかなりの家庭に普及していたものの<予言はまだ進行中>だった。その後、というか現在、落語家はテレビなどあてにしないで元気にやっている。相撲は予言通り6場所制になって久しい。小説は読まれなくなったといわれながらしぶとく生き残っている。巨人戦のテレビ放送にかじりつく時代はとっくに終わって巨泉もテレビを卒業して実業家になり音楽や美術など<気ままな趣味>に生きているらしい。巨富を得たのか?それはどうだろう。

*1885年  パリの作家エドモン・ド・ゴンクール邸で文学サロン「日曜日」が始まった。

エドモンは弟のジュール・ド・ゴンクールとの共同制作で約30冊の小説、歴史書などを書いた。ジュールは結核により40歳で早世するがエドモンは美術評論も手がけるようになったからサロンにはエミール・ゾラやアナトール・フランス、モーパッサンら常時、数十人が参加した。エドモンは東洋の国・日本にも大きな関心を持っていた。パリ万国博で訪れたのちの総理大臣・西園寺公望や松方正義らとも交友があったことが知られている。

「グルニエ=屋根裏部屋」と呼ばれた部屋には東西の美術品が飾られており歌麿や北斎などの浮世絵コレクションも充実していた。永井荷風もフランス時代に観賞して紹介文を残している。これらの美術品はエドモンの死後、遺言で競売され、それを基金としてフランスでは最も権威のある文学賞のひとつであるゴンクール賞が運営されている。

*1954=昭和29年  ハリウッドスターのマリリン・モンローが来日した。

こう書いたが「野球コーチ」のために招待された新婚の夫ディマジオについて来日した。ところが日本のマスコミは亭主のほうはそっちのけでモンローばかりに取材が集中した。羽田空港から宿舎の帝国ホテルまで、当時ディマジオが所属していたサンディエゴ・パドレスのフランク・オドウル監督らと車を連ねてのパレードだったから彼らを一目見ようと云う熱狂的なファンが空港や沿道に詰めかけた。さらにホテルのバルコニーからファンにモンローが「投げキッス」のサービスをする一幕も。

翌日の記者会見はディマジオへの質問はほとんど出ず、もっぱらモンローのほうばかりに集中したからニューヨーク・ヤンキースのスーパースターだったディマジオはおかんむりだった。「寝る時は何を着ますか」の質問に「シャネルの5番よ」と答えたのはこのとき。素肌にディオールのドレスを着ての「モンローウオーク」が話題となり主客転倒になったことも早過ぎる離婚のきっかけになったとされる。

*1935=昭和10年  歌舞伎の初代中村鴈治郎逝去で大阪市内では号外が出された。

朝日新聞の号外は「劇壇一世の名優中村鴈治郎は京都南座における顔見世興行出演中に倒れ、同18日以来阪大病院に入院していたが1日午前5時20分、遂に永眠した。享年76」と報じた。役者の死で号外が出されたのは後にも先にも成駒屋ただひとりである。

関西を代表する役者だが東京の九代目市川團十郎や五代目尾上菊五郎にも教えを受けるなど芸熱心で、美貌だけでなく芸に工夫を重ねた。『心中天網島』の治兵衛役が十八番中の十八番とされ、ファンは死後当分の間「魂抜けてとぼとぼうかうか」と暮らしたという。

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