“2月2日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1920=大正9年 東京市街自動車の「乗合バス」に日本初のバスガールが登場した。
黒ツーピース、白襟のハイカラスタイルと月35円の破格の給料が話題になった。前年8月に新橋―上野間に登場した乗合自動車は混むうえに揺れが激しいなどと人気がいま一つだったからイメージアップ作戦でもあったか。朝日新聞に掲載された初日のバス同乗記にはこう書かれている。
田舎には既(とう)の昔にある乗合自動車が、いま東京の大通りを走るのも一つの皮肉である。――とまれ1日の開業日の午後1時頃新橋から乗ってみる。
青色に塗られた箱自動車の後部の出入口から悠々と上がり込もうとすると、どやどやと我勝ちに犇(ひし)めき合って新車掌君頗(すこぶ)る面喰いの態「満員ですから後に願ひます」と硝子の観音扉をピシャンと締める。天井が馬鹿に低くて記者の山高は忽ちペコンと凹んだ。腰をおろすと6人の座席が可成り窮屈だ。帽子も服も新しい車掌君が後部の腰掛から「動きます」とも何とも言はず、手を伸ばしてベルの釦(ぼたん)を押すとチリリンと鳴って運転手の把手=ハンドルが回る。
「車が大きくて骨が折れます」と運転手は右手に警鈴の圧搾管を絶えずブーブーと鳴らす。電車の停留所でまごつく、辻々の荷車に喰止められる。動揺が馬鹿に甚だしくて試しに本を拡げて見ると眼がチラつく。(中略)万世橋から上野へはスピードが出る。追い抜く電車も電車も見れば満員鈴生り、上野に着いて金30銭。「乗換切符は」といった商人らしいのが断られて「ヘエそれでは高いや」と笑わせた。運転15台、当日だけ午後5時迄の終運転で7千人の乗客、約2千円の初収入つまり頑迷な電気局が得意客を取られた訳になる。
圧搾管には「スポイト」とルビがふってあるが警笛のこと。見出しには「七千人運んだ 乗合自動車の開業日」とある。当時の取材記者は山高帽をかぶっていたのですね。
寄り道してしまったがバスガールとはいっても女性車掌でここに書かれたように「動きます」とも何もしゃべらない男子車掌君に代わって「発車オーライ」とか「もう少し詰めていただけませんでしょうか」「揺れますから吊皮におつかまり下さい」と案内したのか。
ちなみに「発車オーライ」といえば初代コロムビア・ローズが歌った『東京のバスガール』を思い出す。
若い希望も 恋もある
ビルの街から 山の手へ
紺の制服 身につけて
わたしは東京の バスガール
“発車オーライ”
明るく明るく 走るのよ
1957=昭和32年に日本コロムビアから発売された。こちらは「はとバス」のガイド嬢をイメージして丘灯至夫が作詞、上原げんとが作曲した。
*962年 神聖ローマ帝国が成立しオットー1世がローマ教皇ヨハネス12世から戴冠された。
オットー1世はイタリアに野心を燃やしていたから豪族からの圧迫に苦しんでいたローマ教皇にしてみれば絶好のチャンス到来だった。「ローマ帝の冠」を授けるのはその<返礼>でもあった。またしても甦る「ローマ帝国」の名、戴冠後は「オットー大帝」と呼ばれた。
帝国は特定の首都を持たず、皇帝はその時々の自身の所在地で宮邸会議などを行ったから「旅する王権」とも呼ばれた。しかも諸侯は分立したままだったから実権争いが絶えないことがドイツ内部の統一を遅らせた。教会への介入で教皇側が態度を硬化させるなどといろいろあったもののさまざまな推移を越えてあのナポレオン・ボナパルトによって征服されるまで神聖ローマ帝国の名は続いたわけです。
*1954=昭和29年 国際航空路線が再開され日本航空第一便がサンフランシスコへ飛び立った。
敗戦により日本の空から国内機の姿は消えていたが外国航空会社の相次ぐ乗り入れでようやく民間航空事業の再開の動きが活発化し1951=昭和26年7月に日本航空が設立された。もっとも許可されたのは営業面だけで運行はすべて外国の会社を使うことが条件だった。ようやくノースウエスト航空との間で契約が成立したが10月には伊豆大島の三原山に衝突して37人の死者を出す「もく星号」の事故が起きた。
この日運行されたのはダグラスDC6Bを使った「シティ=オブ=トウキョウ」で午後9時30分、羽田の東京国際空港を離陸してホノルル経由でサンフランシスコに向かった。この太平洋横断航路は毎週2往復だった。3日後の5日には那覇線が開設され、31年にはバンコックへ、33年にはシンガポールまで延長されたが運行担当は外国人操縦士たちだった。「沖縄空路も国際線?」と思われるかもしれないが日本復帰前だったから沖縄は<まだ外国>でした。