池内紀の旅みやげ(26)老舗の底力ー群馬県桐生
群馬県桐生市は、かつて絹織物で栄えた。天満宮前の六斎市に絹市が立ったのが始まりというが、ひところは京の西陣と商いを競っていた。現在は紋織りのお召や帯が中心だという。銘仙や輸出用のマフラーも作っている。
両毛線桐生駅を出て、やや東寄りの本町通を歩くのは、とても楽しい。歴史的町並みがよく残っていて、標識が目につくと、つい足がとまる。
「二代目矢野久左衛門が寛保二年(一七四二)現在地に店舗を構えて以来……」
土蔵やレンガ蔵がみごとである。酒、味噌、醤油など日常に欠かせないものを預かり、いまなお健在で、寛保以来のノレンを守っている。
「明治期の桐生を代表する買継商 書上文左衛門の商店店舗です」
明治半ばには横浜に、ついで中国・上海にも支店を出したというから、ひろく世界に飛躍していた。旧家は懐深いもので、作家坂口安吾に離れを提供し、最後を見とったという。
織物工場は自然光を取り入れるためにノコギリ屋根のスタイルをしていたものだが、そんな旧工場があちこちに残っている。レンガ造り、地元産の大谷石(おおやいし)造り、木造りとさまざまで、採光面に工夫をこらし、通風用の丸窓飾りが美しい。駅に近いところは本町五丁目で、北に向かうと四丁目、三丁目、二丁目と移っていく。順に古くなるわけで、天満宮のある天神町の前に本町がつくられ、町の発展とともに南に膨張していった。
天満宮の境内を抜けると、左に古風な守衛所が見える。マッチ箱のように小さいが、しっかりした木組みで、緑がかった水色がワクどりをして白い板壁を囲っている。群馬大学工学部のいかめしい看板のわきに可愛らしく控えており、通常なら受付けにあたるのだろうが、ここはやはり「守衛所」といいたいものだ。大学の敷地とあって尻ごみする向きがあるかもしれないが、文化財見物にきたのだから、かまわず入っていく。守衛がとがめだてたりせず、むしろ声をかけてパンフレットを渡してくれる。守衛所自体が「国登録有形文化財」なのだ。
左の裏手にまわったところ、すっきりとした木造2階建て。柱ほかの要所は淡い緑というか、もっと微妙な色合いで、フランス語にいう「ブールジョン」、木の芽色で、白っぽく、くすんだ緑。正面飾りを色どって、品よく、優雅で、どこかしら懐かしい。大正五年(一九一六)に創設された桐生高等染織学校の講堂である。もともとはキャンパスの中央にあったが、門近くに移築され、同窓記念会館として甦った。
「染織学校」などというと安手の専門学校を思わせるが、近代日本が誇っていた旧制高校に相当する。ナンバースクールと言って、一高(東京)、二高(仙台)、三高(京都)、など数字をふった高校が明治時代につくられた。大正に入り新潟、松山、水戸、浦和など、「地名校」とよばれるものがあとにつづいた。ナンバースクールは帝大にならって重々しいレンガ造りだが、地名校は大正デモクラシーを反映して、親しみやすい木造で、品のいいスタイルをとっていた。地名校のトップが大正八年(一九一九)の新潟、松本などの四校だったから、桐生の高等染織は三年早く、新しいスタイルの先駆けとなったことが見てとれる。当時の桐生市が保持していた力のほどがしのばれるのだ。
建物は「ハンマービーム」とよばれる独特の屋根構造をもち、外まわり、インテリアとも当初の姿を伝えているそうだ。創設の早さからして旧制高校の校舎や講堂の手本になったと思われる。惜しまれるのは守衛所裏の狭いところに移築したことだろう。前方にアキがなく、全体を見ようとしても、うしろに下がれない。元のままキャンパス中央部にあって、前に広場を控えていたら、きっと息を吞むほどの華やぎを見せていた。
本町一丁目に、いかにも由緒ありげな森合資会社の建物がある。初代は明治から大正期に活躍した実業家で桐生第一物産売買所を創設。二代目は高等女学校、高等染織学校などの設立に尽力し、地元の銀行頭取のかたわら、撚糸合資会社、合資会社桐生制作所、両毛整織、渡良瀬水力発電、足尾鉄道などの設立に参画。三代目は県の銀行、金融会社、農協、商工会議所などの役員をつとめた。発展期は常にそうだが、まさに時代が求めるような才覚の持主があらわれるものである。
とはいえ、いつまでも時代の花形ではいられない。ふと気がつくと変化に取り残されていて、一線を退いた元幹部といった町があるものだ。桐生市の都市計画課発行の「まち歩きマップ」が、近代化遺産巡りをすすめている。おおかた用ズミの過去の遺産を、手をつけずそのまま活用する。それもまた老舗の底力というものだ。
【今回のアクセス:JR両毛線のほか東武鉄道桐生線も使える。地図を片手にゆっくり歩いて、およそ二時間】