“2月11日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1847年 発明王・エジソンがアメリカのオハイオ州で生まれた。
本名はトーマス・アルバ・エジソン。7人兄弟の末っ子で小学校に入学したもののわずか3カ月で退学させられた。原因は「なぜ」を連発して教師がさじを投げたからと。「なぜなぜ小僧」を英語で「クイズ・キッズ」。答えも用意できれば当世なら<天才クイズ少年>といわれるかも。
多くの「伝説」があるが勉強は母親から教わり、自宅地下室を「研究室」にして買ってもらった実験器具でさまざまな研究に没頭した。23歳で発明家として独立、蓄音器、白熱電球、映画など1,300以上の特許を取得した。
京都・八幡市の竹を白熱電球のフィラメントに使ったのを記念して石清水八幡宮の境内に Genius is one per cent inspiration and ninety-nine per cent perspiration と刻まれた「エジソン記念碑」がある。「天才は1%の霊感と99%の汗である」(天才でもあとの努力が大切)と訳して彼の<名言>とされているが、本人は「新聞記者がそう書いただけで<1%のひらめきがあれば99%の無駄な努力は不要>と言った」という説もある。
ウーム。ついでに紹介すればエジソンは発明の利益を守るために訴訟をいとわなかったことから
<1%のひらめきと99%の訴訟>と皮肉られてもいる。毀誉褒貶はこれ人の常か。
*1889=明治22年 大日本国憲法が公布され、憲法発布式ではじめて「万歳」が唱えられた。
憲法制定の準備はのちに文部大臣となる井上毅によって進められ、初代内閣総理大臣の伊藤博文を中心に首相秘書官の伊東巳代治、金子堅太郎らが参画してそれぞれ専門分野を担当、憲法、皇室典範、議院法、貴族院令、衆議院議員法などの草案を作った。1887=明治20年には横須賀市の夏島で<合宿>しながら憲法草案の検討を重ねたことも知られる。これらの草案は、天皇の最高機関である枢密院で天皇自ら出席して極秘裏に審議され、直前の2月初旬に作業を終えた。
こうした背景もあったから憲法では天皇の大権を他の立憲君主国に比べて極めて広いものとし、戦争の宣戦・講和、条約の締結を大権に付属させ、統帥大権を確立することで参謀本部=陸軍と軍令部=海軍を内閣が触れない不関与の地位に置いた。さらに皇室典範の制定で皇室は議会関与の外にあるという特権が与えられたことが特徴としてあげられる。
憲法発布の式典は「紀元節」のこの日午前10時から宮中正殿の大広間に内外の高官を招いて華やかに行われた。万歳が唱えられたのは天皇を迎える場面で一同、慣れないながらも「バンザイ」を三唱した。式典は天皇から内閣総理大臣の黒田清隆に憲法が手渡されて無事終了した。
新聞は<憲法発布で儲けた人>として洋服屋に旗屋、酒屋に花柳界とからかった。ドイツ人医師のベルツは日記に「滑稽なるかな、誰一人としてその内容を知らないとは」とあきれ、自由民権家の中江兆民は「贈与せらるるの憲法、果たして玉か、はた瓦か。いまだその実を見るに及ばずして、ますますその名に酔う。わが国民の愚にして狂なる、何ぞかくの如くなるや」と嘆いた。
*1862=文久2年 江戸城で徳川14代将軍家茂と孝明天皇の妹・和宮との婚儀が盛大に行われた。
和宮は有栖川宮熾仁親王という婚約者がいたが、幕府は尊皇攘夷運動が激しくなるなかで公武合体を進めようとする典型的な「政略結婚」だった。ともに16歳、和宮は孝明天皇に「誠にいやいやのことだが、天下太平のため余儀なくお受けしました」と手紙を書き送っている。
仲睦まじかったと伝わるがなにか予感があったのか家茂はわずか5年も経たないうちに死去し和宮は未亡人になった。
*1931=昭和6年 初のスーパーインポーズとなるアメリカ映画『モロッコ』が封切られた。
スーパーインポーズとはつまり「日本語字幕入り」ということ。映画そのものも質が高く、ゲーリー・クーパーとマレーネ・ディートリッヒという2大スターの共演が字幕を採用することで<ことばの壁>がなくなったこともあって人気を博した。
その一方で<お役御免>になった弁士の生活は深刻だった。折から男子の就職難時代で大学や専門学校の卒業生でもなかなか就職口がない時代、寄るとさわると「何か新しい仕事口はないか」だったというが「あるもんか」ならまだいいほうで「・・・・・」だった。