“2月12日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1984=昭和59年 冒険家・植村直己が厳冬期のアラスカ・マッキンリーの単独登頂に成功した。
ところが頂上直下にビバーグし翌13日に「順調に下山している」の交信を最後に行方不明になった。エベレスト登頂などをはじめ、単独でのマッターホルン、キリマンジャロ、アコンカグア登頂や犬ゾリによる1万2千㌔の北極圏やグリーンランド縦断、北極点到達など輝かしい実績があった植村は登頂の日がちょうど43歳の誕生日だった。「ひょっとしたら」と日本国民だけでなく世界中の登山仲間らが待ち続けたが願いはかなわなかった。
母校・明治大学山岳部による2度の捜索で山頂に本人が残した日ノ丸の旗だけが見つかった。「不安な時は、小さなことでもいい、今できる行動を起こすこと」「あきらめないこと、どんなときでも決してあきらめないこと」彼が残した言葉はシンプルだが私たちに成功するためにやるべきことを示している。人生は冒険家だけのためにあるのではないから。
*1908=明治41年 ニューヨーク~パリ間の初の自動車競争がタイムズ・スクエアをスタートした。
とはいっても地球4分の1周、総走行距離約2万キロとなると現代の自動車でも完走は難しいという。しかもこの年、ようやくあのT型フォードが誕生した自動車草創期だった。参加したのはフランス3台、アメリカ、イタリア、ドイツ各1台の計6台。アメリカ大陸を北上、アラスカからベーリング海峡を船で渡り、日本を経由して旧・満洲からシベリア、モスクワを回ってパリをめざした。
結果、フランス組は全滅、7月25日にドイツが1番にゴールしたが<近道疑惑>で失格、4日後にゴールしたアメリカが繰り上がって優勝をさらった。
*1603=慶長8年 徳川家康が62歳でようやく征夷大将軍になった。
朝方降った雨も上がった午前10時、勅使が家康の待ち受ける伏見城に到着した。告使が庭先で「御昇進」と二度唱えて儀式が始まり、家康に宣旨が手渡された。この瞬間、江戸幕府が開かれたことになるが、これから東海道を江戸まで長い道のりをはるばる<下って>行かなければならなかったからこの段階ではまだ徳川幕府と呼ぶのが適当だろうか。
*1912=明治45年 267年間続いてきた中国・清朝がついに倒れた。
清朝政府、なかでも軍部に絶大な力を持っていた袁世凱が辛亥革命で南京に中華民国臨時政府を樹立して「臨時大総統」になっていた孫文との間で約束した第12代皇帝・宣統帝の退位を実行させた。のちに満州国皇帝となる愛新覚羅溥儀(ふぎ)でわずか7歳だった。
それまでの中国が「秦の始皇帝」以来2133年にわたった専制君主制の歴史に幕を引くことでもあった。孫文の南京政府は北部一帯に勢力を持つ袁世凱と渡り合うには貧弱な勢力しか持っていなかった。やむなく民主共和とは縁のない人物といえる袁に<革命の成果>を委ねるという妥協の産物でもあった。
その20年後、天津にいた溥儀は日本の軍部に引き出される。こんどは満洲国皇帝としてさらにはかない役割を負うためであった。
*1842=天保11年 風紀取り締まりとして江戸市中の「寄場」500カ所が閉鎖された。
寄場とは「人寄せ席」を略した寄席と同じ意味で、歌舞音曲など大衆芸能を興行する演芸場のことをいった。前年5月から始まった老中・水野忠邦による財政立て直しの「天保の改革」であげられたのが検約と風紀の取り締まりだった。その手始めとして行われたのが祭の自粛で、次いで芝居小屋の集中移転と続き、寄場がやり玉に挙げられた。きっかけは私娼と紛らわしいとして禁止された女浄瑠璃語りの興行が密かに続けられていたからというものだった。
役者は市中を出歩く際には目立たないように編笠をかぶることが義務付けられた。「天下の御触れも三日だけ」とタカをくくった人気歌舞伎役者の中村仲蔵が編笠をかぶらずに出歩いていたところを町回り同心に捕まり手鎖を申しつけられた。そのうわさがすぐに広がり、各座元ではあわてて編笠を買いに走る一幕もあったという。
その後、さすがにやり過ぎだったということになり<健全な興行>を条件に公許の寄場を15カ所に限定して開設することにした。免許状を与える際に厳しく申し渡されたのは「神道・心学・軍書・昔噺の四業で、その他の芸人、茶汲み女、商人、婦人を出入りさせてはならぬ。また噺のなかに鳴り物を入れることは禁じる」といった内容だった。こうなると興行主としても工夫のしようがない。それにしてもいつの世でも<健全な興行>とは難しいものなり、ではあります。