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“2月15日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1877=明治10年  西郷隆盛が1万3千人の兵を率いて鹿児島を出発、西南戦争がはじまった。

南国には珍しく60年ぶりの大雪だった。西郷は県庁に「政府に問うところあり」と届けて熊本鎮台に向かった。九州各地の士族や自由民権派も加わり総兵力は3万人に達した。明治新政府に対する旧士族の不満が各地で爆発した反乱のうちでは最大で日本最後の「内戦」に発展した。別名、西南の役、政府は征討軍を編成して九州に急派、鎮台のあった熊本城を取り囲む熊本攻防戦や救援に向かう政府軍との田原坂の激戦などを繰り返した。

熊本、宮崎、大分、鹿児島の各地で7カ月にもわたった戦いで西郷軍は次第に追い詰められ9月はじめに約400人が鹿児島市を見下ろす城山に立てこもった。24日早朝、政府軍が総攻撃を開始、銃撃で負傷していた西郷が自刃した。最後のことばは「ここらでもうよか(よかろう)」だったと伝わる。さっそくこの年に流行ったのが『西郷隆盛の唄』だった。

  西郷隆盛いわしか雑魚か
  たいに追われて逃げかねた
  西郷隆盛ゃ枕がいらぬ
  いらぬ筈だよ首が無い

と、まったくの戯れ歌だったが一時は新政府の中心にいた西郷は個人的な野心をいっさい持たず、多くの人々から慕われていたから朝敵とされた西郷には同情が集まった。死後、夜空に強い光を放つ火星を仰いで誰言うとなく「西郷星」と称えたことからも尊敬愛慕の念がいかに強かったかがうかがえる。賊の汚名を解かれ上野公園に銅像が建てられた後だが西南戦争を歌った民謡『田原坂』がヒットした。

  雨は降る降る 人馬は濡れる
  越すに越されぬ田原坂
  右手に血刀 左手に手綱
  馬上豊かな美少年
  春は桜 秋ならもみじ
  夢も田原の草枕

こちらは今も歌い継がれている。1904=明治37年ごろに九州日日新聞記者の作と伝えられるが西郷軍のなかには多くの少年も混じっていたのがあらためて偲ばれる。

*1942=昭和17年  太平洋戦争緒戦のシンガポール攻略戦で日本軍がイギリス軍に勝利した。

降伏したイギリス軍司令官パーシバル中将が午後7時、白旗を掲げて前線に現われた。山下奉文司令官との会見が行われたのは激戦地・ブキテマの北にあったフォードの自動車工場だった。この場面は洋画家の宮本三郎画伯の絵にはどっかりと腕組みして座った山下が描かれている。
「ごく簡単に返答願いたい。私は無条件降伏にのみ応じます」
「イエス」
「降伏意思があるかどうか」
「返答は明朝まで保留されたい」
「明日とはなんだ。日本軍は今夜夜襲しますぞ。それでもよろしいか」
「はっきり聞く。無条件降伏、イエスかノーか」
「イエス」
「では日本時間午後10時をもって停戦、市内は英軍1000名で警察権を行使せよ」
「イエス」
テーブルを叩く。
「もし違反したら、ただちに攻撃を開始する。どうだ!」
「市内に残留する英・濠人や兵に対して安全を保証していただきたい」
「大丈夫、その点は保証します」

このやりとりがそのまま報道されると国内は沸き上がった。そして戦争続行につながった。

*1961年  アメリカのフィギュアスケート選手らが乗った航空機が墜落、全員が死亡した。

事故を起こしたのはベルギー・サベナ航空のボーイング707型機でブリュッセル国際空港に着陸する寸前に墜落、乗客・乗員72人が死亡した。同機はニューヨークを飛び立ち空港上空で滑走路が空くのを待って旋回中だった。チェコ・プラハでの世界フィギュアスケート選手権に向かう米国選手団18人とコーチ、家族など16人のなかには女子の花形だったオーエン姉妹も含まれており、大会は急遽中止になった。

当時のケネディ大統領も哀悼の声明を発表するなど世界のスケート界に衝撃を与えた。

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