“2月17日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1885=明治18年 日本政府があっせんしたハワイ移民の第一陣が横浜を出港した。
在日ハワイ総領事ロバート・アーウィンと外務卿=外務大臣・井上馨との間で結ばれた日本ハワイ労働移民条約にもとづく正式移民で「官約移民」と呼ばれた。「常夏の島、3年の契約期間で400円は稼げる」という<触れ込み>で当時の東京市の巡査の初任月給が6円だったから農家の次三男以下が飛びついた。第一陣は定員600人の公募に2万8千人が応募、50倍近い競争になった。
山口と広島県の出身者が応募の過半数を占めたが、なかでも山口出身の「長州閥」だった井上の地元では情報が先行していたのか応募者が飛び抜けて多かった。ハワイでの仕事はサトウキビの収穫や製糖工場での労働が中心だった。毎日10時間以上働かされるなどザラで休みはほとんどなく、食事や諸経費を差し引かれた給料は<触れ込み>の何十分の一以下しかないのが実態だった。
この日、横浜港の「シティ・オブ・トウキョウ号」のデッキから見送りの肉親らにちぎれるほど手を振って出発した移民らは誰ひとりとして自分たちの身に降りかかる過酷な運命を知らなかった。「身体には気をつけるんだぞ」という心配に対しては「たくさん仕送りするからね」とか「大きな家を建てて呼び寄せるよ」という叫びが港に響いた。
希望の楽園への<憧れのハワイ航路>。移民窓口が民間に委託されるまでの10年間に3万人近くが海を渡った。
*1901=明治34年 『檸檬(れもん)』で知られる作家・梶井基次郎が大阪・土佐堀で生まれた。
東京帝国大学英文学科在学中に同人誌「青空」に発表した『檸檬』は1931年=昭和6年に出版され、批評家として頭角をあらわしていた小林秀雄らに高く評価されたが翌年、31歳で早世した。
えたいの知れない不吉な塊(かたま)りが私の心を始終圧(おさ)えつけていた。焦燥といおうか、嫌悪といおうか。
という書き出しで始まる短編小説は「私」が書店の丸善の画本の上に<爆弾>になぞらえた檸檬を置いて立ち去る。
変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛て来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう。
肺結核を病んでいた梶井は「檸檬を爆弾に見立てることで自分を圧迫する現実を粉砕してしまいたいという夢を刻んだ」といわれるが、作中で「私」が檸檬を買った京都・寺町通りの果物店「八百卯」も廃業、それを書棚に置いた「丸善」も目抜き通りに移ったものの閉店して久しい。
*1946=昭和21年 内閣が経済危機突破への非常措置として預金封鎖、新円発行などを発表した。
いきなりの発表だったからラジオを聞いていた国民はア然ボウ然。手持ちの紙幣が使えなくなるというし、聞いたこともない「預金封鎖」とは何のことだ。今後は政府が発行する「新円」とやらだけが通用する。いまの紙幣は3月2日で通用禁止になるが新円との交換は25日から3月7日までの間。しかも1人当たり100円までであとは預金しなければならないし、給料も新円で支給されるのは500円だけでそれ以上は預金となる。自分のものなのに預金の引き出しは1カ月に世帯主は300円、家族は1人当たり100円ずつ。わからん、わからん。
とどまるところを知らない「悪性インフレ」を止めるための<劇薬>で、秋に予定されていた実施を急に繰り上げた措置だった。当然ながら新円の印刷が間に合わず、旧紙幣に証紙を貼って新円として通用させる方法もとられたが、旧100円札に10円の証紙を貼ったものを新100円になると勘違いしてしまったなどの笑えない珍騒動が多発した。
効果はあったのか。インフレの抑制にはある程度の効果はあっただろうが闇市、栄養失調、貨幣価値の下落で庶民の生活はますます窮迫の度を増した。「500円生活」という言葉が流行語になる一方で使えるうちに旧円を使おうと散財する輩も多かった。引き続き流通することになった5円以下の少額紙幣や硬貨に換金してそれをため込む人も多く、店頭に貼り出された「釣銭出します」のビラに何でもいいから買い回る人々もあらわれるなどの騒ぎになって逆に消費は急増した。
特筆されるのは敗戦国という<別の国>になったことで国民が戦前にせっせと買い続けた国債などの債券はほぼ無価値になった。「額面」は価値のないただの数字に化けてしまった。