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“2月22日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*622=推古天皇30年  聖徳太子とされた厩戸王が亡くなった。

ひと昔前なら「聖徳太子薨去」で済んだのが近年は<聖徳太子はいなかった説>が広まり、教科書は「厩戸王(聖徳太子)」の表記がほとんどになった。聖徳太子という呼び名は死後100年も経ってから編纂された『日本書紀』や『古事記』などに初めて出てくる死後に贈られる「諡(いみな)」とされる。つまり史実の可能性の高い「厩戸王」と<聖徳太子>とは別にして考えましょうというわけ。

おなじみの聖徳太子像も「聖徳太子とされる人物」になっているし、過去には100円札、1000円札、5000円札、10000円札など7回も“紙幣の顔”として<ご登場願った>のに写真説明も「一般的に聖徳太子とされる人物の肖像が描かれた1万円札=C1万円券」という具合である。

ああややこし!ほんまにほんまでっか?と急に関西弁になってしまうのは奈良・法隆寺をはじめ大阪・四天王寺、京都・広隆寺など太子ゆかりのお寺は関西に多いので聖徳太子ファン(お金じゃなくて)の<もやもや>を代弁したつもり。前日に亡くなった妃を悲しむあまり、あとを追うように奈良の斑鳩宮(いかるがのみや)で没したとされるから夫婦仲は良かったか。

*1732年  「アメリカ建国の父」ジョージ・ワシントンが、バージニア州で生まれた。

一家は典型的な中流の農園主で父親は彼が11歳の時に亡くなり14歳年長の長兄が親代わりをつとめた。青年時代に測量技術を学んだことで、農園を経営していたのに何度も戦争などに駆り出されたのはなにより<地理に明るかった>からである。1775年に始まったイギリス軍を相手にした「独立戦争」ではバージニアをはじめとする南部諸邦の勢力を集めた植民地軍総司令官に任命された。

戦争は一進一退、植民地軍はイギリス軍相手に9回戦ってわずか3回しか勝てなかったがフランスの参戦などがあって1781年にその連合軍がバージニア州のヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏させた。2年後のパリ条約によって大英帝国はようやくアメリカの独立を承認することになった。さらに6年後に行われた初の大統領選挙でアメリカの初代大統領に就任した。ここまでが駆け足の「ワシントンとアメリカ建国史」だ。

いくつかエピソードを紹介しておこう。ワシントンは「ショートスピーチの名手」と言われた。実は若いころから虫歯がひどく、自分の歯がほとんどなかったので「入れ歯」には終生苦労した。そのため演説はなるべく避けるか短くなるよう要領よくまとめた。そういえば合わない入れ歯が当たるのか歯痛をこらえているのか1ドル札の肖像は口元が歪んでいる、というのはかなりの確率で当たっているかも。

ワシントンの名を冠した首都のワシントンD.Cは彼の死後に湿地帯を埋め立てて市街地が造成されホワイトハウスが建てられた。従ってワシントンは一度も首都へは入ったことはなく、ホワイトハウスで執務しなかった唯一の大統領である。

ついでながら子供のころから正直者だったという「桜の木を切ったと自ら父親に告白した話」はあとで創作された作り話である。「父親が正直に告白した彼をすぐに許したのはまだ手に斧を持っていたから(危険を感じて)」というのはまったくの与太話。

*1585年  天正少年使節一行が白馬にまたがってローマの街をサン・ピエトロ寺院へ行進した。

市民は彼らを見ようと沿道を埋めたいへんな騒ぎとなった。使節はキリシタン大名の大友宗麟の名代・伊東マンショを主席正使に、同じく大友純忠の名代・千々石ミゲルを正使、中浦ジュリアン、原マルティノを副使として巡察使・ヴァリヤーノに伴われて3年前に長崎を出港した。ポルトガルの首都リスボンを経てスペインの首都マドリードでは国王フェリペ2世の歓待を受けた。

地中海に入るとまずフィレンツェでメディチ家による舞踏会に参加、最大の目的だったローマをめざした。白馬に乗っての行進はその後に予定されていたローマ教皇への謁見のためのセレモニーでもあった。「帝王の間」で謁見したのはグレゴリウス13世で3月1日だったとされる。教皇は4人にローマの市民権を与えたが彼らには故国で自分たちが実際に見聞したヨーロッパのキリスト教世界の偉大さを語り伝えることで布教に役立てるという使命があった。グレゴリウス13世の後を継いだシクストゥス5世の戴冠式に出席すると他都市を回り、翌年4月にリスボンを出航して帰路についた。

彼らは活版印刷機や西洋楽器、海図などを持ち帰った。だが名代をつとめた2大名は相次いで亡くなり、天下を統一した豊臣秀吉によってバテレン追放令が出されていた。彼らが幼少時に学んだ初等神学校のセミナリヨはすでになく、1590=天正18年に長崎に帰国した使節は<筋金入りの異教徒>となっていた。

唯一、その後の苦難に満ちた人生で彼らが一瞬の光芒を放つのは翌年、京都の聚楽第で秀吉を前に西洋音楽を演奏したときだろう。

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