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“2月26日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1936=昭和11年  雪の帝都を揺るがし日本を震撼させた「2・26事件」が勃発した。

「2・26事件」はあまりにも有名だから他を探そうとしたが<思いとどまって>(ちとオーバーか)紹介することにした。

昭和史の大きな曲がり角となったこの事件は陸軍部隊による重臣や要人暗殺が立て続けに起こった。これに政府や軍部はなす術もなく、天皇の「断固鎮圧せよ」との強い命令で4日目の29日になってやっと沈静した。陸軍皇道派の青年将校ら1,483名が「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げたクーデターは、当初、決起部隊とか行動部隊と呼ばれていたのが騒擾部隊と変わり、3月1日に陸軍次官名で出された通牒「今次ノ不法出動部隊(者)ヲ反乱軍ト称スコトトス」でついに正式には反乱部隊となった。

それは結果そうなった、という帰結であるとしても、決起までは一部の将校らで秘密裏に繰り返し実行計画が練られてはいた。しかし実際には<出たとこ勝負>の面も否めず全体の統制を欠き、戒厳令が敷かれて以後の局面では部隊間の分断もあって、戒厳司令部により空からまかれた「下士官兵ニ告グ」のビラやアドバルーン、奉勅命令さえも各決起将校たちにタイムリーには伝わらなかった、つまり作戦全体が充分に下達されていなかったのではないか、ということが今にいたるも大きな疑問点とされている。

真っ先に狙われたのは岡田啓介内閣総理大臣だった。首相官邸に押し入った部隊は、射殺した義弟で秘書官兼身辺警護役の松尾伝蔵・予備役陸軍大佐を首相本人と間違ってしまう。朝日新聞の木下記者によると「総理(首相)はゴマ塩交じりのイガ栗頭だが、松尾大佐はてっぺんがハゲ上り、うしろの所に一寸毛がある程度の違いで、顔も年恰好も実によく似ていた」とある。直接首相に会ったメンバーがいなかったのと、大広間に安置された遺体には顔に布団がかけられ、その後は誰にも見せなかったのだから無理もなかったわけだが、陸軍省は夜8時15分になって事件の概要をようやく発表する。

「本日午前5時頃一部青年将校は左記個所を襲撃せり」

◇首相官邸(岡田首相即死)◇斎藤内大臣私邸(内大臣即死)◇渡辺教育総監私邸(教育総監即死)◇牧野前内大臣宿舎、湯河原伊藤屋旅館(牧野伯爵不明)◇鈴木侍従長官邸(侍従長重傷)◇高橋大蔵大臣私邸(大蔵大臣負傷)◇東京朝日新聞社

「これらの将校等の決起せる目的は、その趣意書によれば、内外重大危急の際、元老、重臣、財閥、軍閥、官僚、政党等の国体破壊の元凶を芟除(さんじょ=取り除く)し、以て大義を正し、国体を擁護、開顕せんとするにあり、右に関し、在京部隊に非常警備の処置を講ぜしめられたり」と決起側の主張をそのまま紹介している。

辛くも難を逃れた岡田首相は女中部屋に逃げ込むが、そこにいた女中たち2人に押し入れの中に押し込まれてしまう。その後しばらくして首相の生存は別の秘書官らによって確認され、政府や宮内省には内々に伝えられたが、救出するにも多数の決起部隊が官邸を占拠している現状にまったく打つ手が見つからない。

一方で牧野伯爵は旅館主人や従業員らと逃げる途中で襲撃部隊に遭遇したが従業員が「御隠居さん」と呼んだのを家族と勘違いされて無事だった。

高橋(是清)蔵相はあとで射殺されていたことが判明した。

朝日新聞社は居合わせた社員全員が雪の数寄屋橋に追い出された。乱入した部隊の約50人は印刷局の活字ケースなどをひっくり返して新聞の発行ができなくなったものの、全員が約1時間後に引き揚げてけが人などはなかった。

「それで岡田首相のほうはどうなった」といわれそうだから続きを。

翌27日になって秘書官らは<岡田首相>とされる松尾大佐の顔に包帯をぐるぐる巻きにしてしまう。表向きは「お顔のけがが痛々しい」ということだったが、別人であることがばれたら大変というわけだ。

次には同じような歳の老人ばかり10人ほどを集めて「弔問団」として首相官邸を訪問する許可を取り付ける。そこで気分が悪くなった一人が倒れたのでやむなく病院に緊急搬送する、という<身代わり脱出作戦>がたてられた。もちろん弔問団の全員には作戦内容や手順が徹底されたことはいうまでもない。

一方、官邸では寝間着姿だった首相に弔問客と同じような洋服に着替えてもらって待機、やってきた弔問団は焼香したりしながら大泣きしたりで時間稼ぎ。気分が悪くなったのも遺体のむごさにショックを受けて、ということにした。秘書官らは<気分の悪くなった弔問団の代わり>にマスク姿の首相を裏口に待たせていた弔問客の車で連れ出した。

まさにあの「ミッション・インポシブル」そっくりの一幕だったが、「混乱を回避するため」として発表はさらに伏せられ、ようやく報道陣に発表されたのは最終日の29日になってからだった。

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