“2月27日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1657=明暦3年 「水戸黄門」で知られる徳川光圀が『大日本史』の編纂に着手した。
光圀は常陸国水戸藩の第ニ代藩主。水戸徳川家の初代・頼房の三男で、徳川家康の孫に当たる。母・久子は正式な側室ではなく、光圀を懐妊したことがわかったときに堕胎する命を受けたもののひそかに出産したという逸話が残る。勢力のある家系の出身ではなかったからではないかと晩年の光圀が語っているが、兄たちの早世で藩主を継ぎ、藩主時代には「快風丸」を建造して蝦夷地の探検などを行わせた。
この年、江戸城本丸が焼失した明暦大火で水戸藩小石川藩邸も焼失した。藩邸が駒込にあった別邸に移ったのを機に光圀は編纂事業のための「史局」を設けた。後に小石川本邸の再建で移した史局のあった館を「彰考館」と改め、館員も増員して南朝関係など遠隔地の資料収集にも力を入れた。1701=元禄13年に光圀が73歳で亡くなったあとも編纂事業は続き、1906=明治39年に250年がかりで全394巻がようやく完成した。
号はテレビ番組の『水戸黄門』にも出てくる梅里=ばいりだが光圀が実際に訪れたのは日光、金沢八景、鎌倉など関東圏のみで<助さん角さんをお供にしての諸国漫遊>などはまったくのフィクションである。明治時代に水戸市に創建された常盤神社には「高譲味道根之命=たかゆずるうましみちねのみこと」という<神様>としても祀られる。ここのお守りは葵の御紋の印籠を模していて「この紋どころが目に入らぬか・・・」と受けているという。
*1933=昭和8年 ベルリンにあったドイツ国会議事堂が深夜、放火されるという事件が起きた。
犯人とされた精神障害があるオランダ人の共産党員が逮捕されたが裁判は一般裁判所で行われたため「放火はナチの自作自演の計画的放火の疑いが濃い」として無罪となった。いくら深夜とはいえ警戒厳重な議事堂に潜り込んでしかも一気に燃え上がらせるには点火するだけでなく相当な燃料も必要になる。たった一人でそんなことができるだろうかというのが無罪にした裁判官の判断だった。
ところがヒットラーのナチ党はこれにも懲りず、男には以前から<放火癖>があったとして裁判を「人民法廷」に移すことで国家への反逆罪まで加えて有罪=死刑に持ち込んだ。さらに事件を最大限利用することで一時は優勢だった共産党への攻撃を強めて3月5日に行われた総選挙に勝利して勢力を拡大していく。
放火事件はナチス台頭のきっかけになった<忌わしく象徴的な事件>として長く記憶されることとなった。
*1872=明治5年 明治政府は兵部省を廃止し陸軍省と海軍省とに分離独立させた。
軍政をつかさどる役所として海陸軍事務科が設けられたのが明治元年、これが軍防事務局となり翌年に兵部省となっていた。新たにスタートした陸軍省の陸軍大輔=大臣は山縣有朋、海軍大輔は勝海舟だったが分離したことでそれぞれが<仲違い>することが多くなっていったのは必然の流れだったか。
*1754=宝暦4年 薩摩藩が幕府の命を受けて「木曽三川」の分流工事に取り掛かった。
幕府の狙いは薩摩藩の弱体化で、濃尾平野の治水対策として木曽三川といわれた木曽川・長良川・揖斐川の分流工事を行うものだった。工事によって恩恵を受けたのは幕府の公領だった116か村をはじめ尾張、桑名、大垣など諸藩の約330か村にのぼったが幕府の援助はまったくなかった。工事を命じられた薩摩藩は当時60万両ともいわれる膨大な赤字を抱えていたから最初は幕府と「一戦を交えるべき」という強硬論が渦巻いた。
しかし結局は幕府には逆らえないとする穏健派の意見が抑え、藩主・島津重年は総奉行に家老の平田靭負(ゆきえ)をあてた。平田は特産品の砂糖を担保に新たに大坂などの商人から22万両の借金をして工事に着手した。950人の藩士と現地で人足千人以上を雇って2年がかりで工事を完成させた。
薩摩藩の事前の工事見積もりは25万両だったが最終的には現在の金額に換算して300億円以上といわれる40万両にも及んだ。しかもあまりの難工事に50人以上が自害し、赤痢などの発生で200人以上が病死した。莫大な費用と犠牲者を出したことで平田は幕府の工事見分の翌日、現地大牧で自害している。辞世の句は
住み馴れし里も今更名残にて立ちぞわずらう美濃の大牧
この治水事業は一連の自害や病気による殉職が多発したことで「宝暦治水事件」と呼ばれる。平田らを祭神とする「治水神社」が1938=昭和13年に地元の人の浄財で岐阜県海津市に創建されている。境内の幕などには島津家の家紋「丸に十の字」が使われ水難除けなどにご利益があるという。