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“3月3日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1854=嘉永7年  「日米和親条約」が結ばれ翌年1月5日に批准書を取り交わす運びになった。

結ばれた場所から「神奈川条約」ともいい12か条あった。調印にあったったのは幕府側が儒者で55歳の林大学頭、アメリカ側の全権は前年も来航した61歳のペリー提督だった。ペリーは前年の予告通り蒸気船3隻、帆船4隻などの艦隊で江戸湾=東京湾にまで乗り入れただけでなく祝砲、礼砲と称して大砲55発をぶっ放した。デモンストレーションというか軍事的圧力の行使といいますか。あわてた幕府側はそれまでのような<ぬらりくらり策>はもう無理、と下田と箱館(函館)の開港を承認してしまう。

かの有名な
「太平の眠りを覚ますじょうきせんたった四はいで夜もねられず」
と囃された一連の“外圧”が一気に押し寄せていたわけです。<蒸気船>と宇治茶の<上・喜撰>を掛けてお茶は含まれるカフェインで4杯も飲むと夜眠れなくなるというのを余談まで。

条約の内容について幕府は朝廷や諸大名には一切を<秘密>にしていた。つまり「密約」だったわけで外交というのは昨今もテレビでやっているけど昔からちっとも変わらないものですなあ。

*1875年  ビゼー作曲の歌劇『カルメン』がパリのオペラ・コミック座で初演された。

ところがこれがまったくの不評で<神聖であるべき劇場の品位を汚した>とまで酷評された。もともと原作はメリメの小説の舞台化だったから音楽を担当したビゼーには責任はなさそうに思えるがその3ヶ月後に敗血症で亡くなると「不評が死の引き金になった」とまで言われた。

原作ではタバコ工場で働くジプシー女のカルメンがけんか騒ぎを起こす。彼女を護送中に兵士で伍長のドン・ホセが誘惑されたり、上官と言い争いになったホセが上官を刺殺して軍を脱走し犯罪集団に入ったりという荒唐無稽の筋書きやあばずれなカルメンが問題になったのだろうが、ビゼーが亡くなると途端に人気が上がる。チャイコフスキー、ドビュッシー、サン・サーンスなどに激賞されニーチェは20回も観たと書いている。

わが国でも浅草オペラでの初演をきっかけに戦後も藤原歌劇団によって数多く上演された。歌劇は物語と音楽がマッチしてこそだから不評の原因はそれなりにあったのだろうが、これを書いているとあの『恋は野の鳥』や『闘牛士の歌』が聞えてくるような。

*1860=安政7年  大老・井伊直弼(なおすけ)が襲撃された「桜田門外の変」が起きた。

おりからの大雪のなかを江戸城に登城する行列を水戸藩の浪士らが襲った。直弼は駕籠の外からピストルで撃たれたうえ首を切られて即死、警護役の彦根藩士らも4名が即死、重軽傷の17名のうち4名がその後亡くなった。幕末最大の暗殺事件である。

背景には将軍の後継ぎ問題で直弼が紀州藩主(のちの家茂)を推したことや、開国の動きのなかで強固な排外思想を持つ光明天皇の直接の要請で前・水戸藩主の徳川斉昭父子が処罰されたことなどがあるとされる。不満を持つ藩士らが脱藩していくなか、危機感を抱いた直弼は開国に反対する声を大弾圧でひねりつぶそうと「安政の大獄」に動くが、浪士らは薩摩藩の一部と結んで直弼暗殺を計画するに至った。

決行の趣旨をしたためた「斬奸(ざんかん)趣意書」には、暗殺は幕府への敵対ではなく、大老の不忠と売国行為に天誅を加えるための行動である旨が記されていたが最高権力者の暗殺で幕府の屋台骨は大きく揺らいだ。

御三家の水戸藩にとっても本来なら将軍を補佐すべき立場にあったのに浪士とはいえ元は家臣だった襲撃首謀者たちは憎んでも憎みきれない「獅子身中の虫」となった。一方の彦根藩も警護を含めて60人もの行列を組んでいたにもかかわらず<見届け役>を含めてもわずか18名に、しかも真っ昼間に藩主の首がとられたのは不名誉極まりないことだった。

江戸の巷に残された落首、つまり落書きにこんなのが伝わっている。
「桜田に胴と首との雪血がい井伊馬鹿ものと人はいふなり」
当日の「雪」と流された「血」とを「胴と首が行き違い=切り離されること」に掛けた、など野暮な解説は抜きにしても散々こきおろされてしまった。

突然の雪といえば三島由紀夫も赤穂浪士の「忠臣蔵」とこの「桜田門外の変」「2・26事件」を<近代日本の三大テロル>と呼び「いずれも血と雪で荘厳されているというのはきわめて詩的なイリュージョンである」と。雪が歴史の決定的瞬間を演出したのは雪だったからの<安心と油断>を誘ってそれぞれの<義挙>なり<暴挙>なりが成功したともいえる。

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