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“3月10日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1945=昭和20年  高性能焼夷弾を搭載した米のB29型長距離爆撃機279機が東京を襲った。

前日の昼過ぎから風が強く、夜半にはさらに激しさを増した。未明の午前零時8分から、とされる超低空から侵入したB29から落された焼夷弾により各所に起きた火災は猛火となって燃え広がり、夜明け前には東京の東部は焦土と化した。

この「東京大空襲」の死者は8万4千人、重軽症者は11万人を超え、太平洋戦争での広島、長崎に次ぐ惨禍となった。罹災者100万人、全焼家屋26万戸で当時の東京35区のうち26区が大被害を受け、本所区(現・墨田区)は実に96%が焼失した。

麻布市兵衛町の高台にあった永井荷風の住まい<偏奇館>も類焼した。日記『断腸亭日乗』に「麻布新築の家ペンキ塗りにて一見事務所の如し。名づけて偏奇館といふ」と書いた洋風の建物だった。

荷風は日記に「天気快晴。夜半空襲あり。翌暁四時わが偏奇館焼亡す」と書き出し、隣人のただならぬ叫び声に、日記や草稿を入れた手皮包(てかばん)を提げていったん避難したものの「二十六年住み馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くかぎり眺め飽かさむものと歩み戻りぬ」と引き返した。
しかし風にあおられた猛火はすさまじく
「(隣家の、西)洋人の家の樫の木と余が庭の椎の大木炎々として燃上り黒烟風に渦巻き吹つけ来るに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るるを見定ること能はず。唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ。これ偏奇館楼上少なからぬ蔵書の一時に燃るがためと知られたり」と続けた。

翌日には、一人暮らしには一軒家は掃除や庭の手入れが大変だし、戦争のために下男下女や庭師も雇えないから困っていた。蔵書も売り払い身軽になってアパートにでも引っ越すかと思っていたので無一物になったのは<老後安心の基>であると強がる反面
「三十余年前欧米にて購(あがな)ひし詩集小説座右の書巻今や再びこれを手にすること能はざるを思へば愛惜の情如何ともなしがたし」と残念がり、さらに翌日、親戚の子が焼け跡から谷崎潤一郎から贈られた断腸亭の印や楽焼の茶碗、煙管を見つけてくれたのを
「羅災の紀(記)念これに如くべきものなし。この三品いづれもいささかの破損なきは奇なりといふべし」と書き残した。

*1855=安政2年  日本初の西洋型帆船「ヘダ号」が進水した。

江戸幕府に開国を迫るために下田沖に来航したロシアの提督プチャーチンの率いた軍艦「ディアナ号」が前年12月23日に起きた「安政東海地震」の大津波に巻き込まれて大破した。津波は下田で波高13メートルに及んだといわれ多くの死者が出た。「ディアナ号」もその後、応急修理のため戸田港へ向かう途中に航行不能になり沈没した。

下田で被災したロシア人乗組員たちは死傷者を出したが湾内に流された日本人を救助してプチャーチンは被災した地元民の救護を申し出て交渉を担当した旗本の川路聖謨(としあきら)を感激させるという一幕もあった。「ヘダ号」はこの代船として建造されたが幕府も最大限の協力をいとわず戸田村に200人ほどの船大工を集め、プチャーチンらの指導をうけながらわずか3ヶ月で完成させた。小型スクーナーと呼ばれる2本マストの西洋型帆船で地名にちなんだ船名はプチャーチンの命名だった。

従事した船大工は幕末・維新期に石川島や横須賀造船所の技術者となって近代日本の造船技術を指導していくことになった。

*1936=昭和11年  探偵小説などで昭和初期に活躍した作家の夢野久作が急逝した。

東京・南平台の自宅で来客と対談中に脳溢血で。享年47歳だった。福岡出身、本名を杉山泰道といい、父・茂丸は右翼結社・玄洋社の総裁をつとめた。息子が雑誌『新青年』の懸賞に応募した『あやかしの鼓』が2等に入選したのを読んで「夢野久作の書いたごたる小説じゃ」と感想を述べた。

福岡では夢想家や夢ばかりを追う人間を「夢野久作」とか「夢野久蔵」という。<文弱>を嫌う父だったから息子の作品を丁寧に読んだわけではないだろうが、息子のほうはそれならと「夢野久作」をそのまま筆名にして九州の新聞などを中心に作家活動の場を広げた。『ドグラ・マグラ』『瓶詰地獄』『犬神博士』をはじめ、切り絵を使った童話『ルルとミミ』などを残した。

どちらかといえばマイナーな作家なのにわざわざ取り上げたのはこの『蚤の目大世界史366日』の筆者の筆名に関係があるから。それがいささか<夢ばかりを追っている>ところありと「夢野久蔵」をもじったのが「蚤野久蔵」という次第。まずは、ず、ずいとよろしくお願い申し上げます。

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