“3月14日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1701=元禄14年 「忠臣蔵」のきっかけとなる江戸城松之大廊下での刃傷事件が起きた。
午前9時過ぎ、登城したばかりの播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(ながのり)が、吉良上野介義央(よしなか)に「さきの遺恨覚えたるか」と声をかけざま小刀を抜いて背中に切りつけた。振り向いた義央はさらに額2か所を切られた。
殿中での刃傷沙汰の知らせに驚いた将軍・綱吉は長矩に即日切腹、浅野家の改易を命じた。長矩はこの日の夕方、身柄を預けられていた芝愛宕下の陸奥一関藩主・田村右京太夫の邸の庭先で切腹し、その夜のうちに高輪・泉岳寺に葬られた。改易は役職罷免と所領、家禄の没収のいわゆる「お家断絶」だが、吉良側には何のおとがめもなかった。
では殿中での刃傷沙汰は初めてだったかというと3度目だった。
1628=寛永5年8月、西の丸で目付の豊島信満が老中の井上正就に切りつけ、その場で切腹した。豊島は井上の息子と大坂町奉行の娘との仲人を頼まれていたが井上が山形藩主の娘との縁談がととのったとして一方的に破談を申し込んだ。それが自身の面目だけでなく相手側の娘も傷ついたとして詫び状をしたため殿中での一件に及んだとされる。律義さのあまりの事件だった。
2度目は1684=貞享元年8月、美濃の大名で若年寄の稲葉正休が大老の堀田正俊を刺殺し自らもその場で同僚に切られて死んだ。こちらは諸説があるが、双方が亡くなったため真相は不明である。
なぜ即日、切腹を命じたのかは当日予定されていた朝廷からの使者を迎える儀式が台無しになったことに綱吉が立腹して、など諸説がある。しかし死を賜ったとはいえ、畳のうえでなく庭の白砂だったし、評定もされずいきなり主君の死体を取りに来るよう言われたりしたことも含めて浅野家の家臣たちには到底納得はできず主君の恨みを晴らす討ち入りにつながったとされる。
*1873=明治6年 政府は太政官布告で外人との婚姻差許(さしゆるし)の条規を布達した。
つまり日本人と外国人との結婚を正式に許可したわけだ。6年前の1867=慶応3年5月に英国側から神奈川奉行への書簡に「外国人の日本人と婚姻を禁ずる法ありや否やと問われた」という記録があり、奉行水野若狭守は「未だ前例なきを以て之を幕府へ稟議せしに、爾後条約国は無差支尊卑の別なく双方出願許可の上婚儀を整ふべき旨を回答せり」としている。
「きちんと届けてさえくれればそれでよろしいですよ」というオープンマインドというか前向きな回答ではある。
歴史探検隊編『日本はじめて物語』(文春文庫)には布告の翌年1月にドイツに留学していた三浦十郎と、はるばる日本まで追いかけてきたドイツ女性のゲルストマイエル嬢が築地の教会で挙式したのがはじまりとある。
またイギリスに留学していた元長州藩士で高杉晋作の甥の南貞助は現地で恋に落ち、その後、日本にやってきたイギリス女性ライザ・ピットマンと結婚したのが政府公認の国際結婚第一号という説もある。(「青山霊園に眠る偉人・著名人」)
なんだか森鴎外の『舞姫』のヒロイン・エリスが日本までやって来ていながら追い返されるのとは逆バージョンだけど、メデタシメデタシの結末だからこれ以上の詮索はしないでおく。
ついでながら石井研堂の『明治事物起原』には「東京麹町山本町の石川県士族北川泰治娘静、神田淡路町共立学校雇教師英人フリームに縁組願を出し、聴き届けられし記事あり。新条規に拠り、公然結婚したる始めなるべし」とあってこちらは女性のほうの国際結婚第一号でしょうか。
*1945=昭和20年 細川家第17代当主の細川護貞が日記に「東海道の諸都市は焦土」と書いた。
戦前、第二次近衛内閣で岳父の近衛文麿首相の秘書官をつとめていた時代も含め太平洋戦争中の昭和18年11月から戦後の21年10月までの日記は「細川日記」と呼ばれ昭和史の貴重な資料として評価が高い。細川護煕元首相の父。
この日の日記に「去る12日発、二児を伴い東京都に来る。途中、名古屋の火災を見る。焼失2万戸、罹災者8万と。東京は10日夜焼失20万、罹災者百万ともいわる。昨夜、大阪大空襲あり」と。東海道はまさに<焦土ベルト>だった。