“3月17日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1945=昭和20年 この日を「硫黄島守備隊玉砕の日」とする。
太平洋戦争末期、小笠原諸島の火山島・硫黄島は前月16日に開始されたアメリカ軍の総攻撃に対し、日本軍守備隊は地下壕に立てこもって応戦してきたが、弾薬などすべてが底をつき、16日午後4時、指揮官の栗林忠道中将は大本営へ<訣別電報>を打った。
「戦局最後ノ関頭ニ直面セリ」から始まる電文は「今ヤ弾丸尽キ水涸レ全員反撃シ最後ノ敢闘ヲ行ワントスルニ方(あた)リ、熟々(つらつら)皇恩ヲ思ヒ粉骨砕身モ亦悔イス」
と続き、最後に栗林の辞世が添えられていた。
「国の為 重き努めを果たし得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき」
南の孤島からの電文を傍受したのは意外にも北海道稚内にあった幕別通信所で、通信員が涙ながらに大本営に転送したと伝わる。これを受けた大本営は栗林を<特旨をもって>陸軍大将にしたが死後進級ではなく当時53歳で<史上最年少>だった。
一方で大本営は21日になって硫黄島守備隊の玉砕を新聞発表したが栗林の辞世は
「国の為 重き努めを果たし得で 矢弾尽き果て 散るぞ口惜し(くちおし)」
と“改ざん”され、それがそのまま報道された。
米軍の兵力11万人に対し、日本軍は軍属を含めても2万3千人弱。制海権、制空権を奪われたなかでようやく持ちこたえてきた守備隊は、明けてきょう17日に栗林が残った全軍に対し
「戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ 兵団ハ十七日夜、総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧(さい=滅)セントス」という総攻撃指令を発した。実際には栗林の最期は26日に行われた残った400の将兵との<夜襲>だったとされる。死者数では玉砕した日本軍が多かったが、米軍の死者は6,821人、戦傷者は21,865人と太平洋戦では唯一、戦闘相手以上の人的被害を出した。
硫黄島では32年のロサンジェルスオリンピックの馬術競技で金メダルをとったバロン西・西竹一中佐も米軍からの「バロン西に告ぐ」というたび重なる<投降勧告>に耳を貸さず戦死した。
米軍が予想外の人的被害を受けたこともあるが、米国の軍事・戦史研究家は太平洋戦争での日本軍の優れた指揮官として真っ先に栗林を挙げるなど評価が高く「General Kuribayashi」は「バロン西」とともに戦史にその名を残している。
*1960年 アルゼンチンに潜伏していた元ナチスのベロニカ・アイヒマンが捕まった。
アイヒマンはナチス・ゲシュタポの元ユダヤ人課長で40万人ものユダヤ人をアウシュビッツに送ったキーマンとされイスラエル諜報特務庁=モサドが懸命な追跡を続けていた。アイヒマンは最大のコンプレックスだった「ユダヤ人似」の顔を逆用して難民を装って別人になり済まして赤十字の渡航証を入手しイタリア経由で南米に逃れた。
アルゼンチン政府にも極秘で行われたこの<生け捕り・移送大作戦>によりイスラエルに連行されたアイヒマンは、法廷で人道に対する罪や戦争犯罪責任により死刑判決を受けた。「ひとりの死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」とうそぶいたというが、いかにもすぎるから本当かねえ。
戦争関連ばかりじゃこちらも気が滅入るのでもうひとつ。
*1870=明治3年 東京・京橋の和泉要助らが連名で東京府へ「人車」の営業許可を願い出た。
西洋人がわが国に持ち込んだ馬車にヒントを得て、さらに軽くて小回りがきく乗り物を作ろうとした。最初は三輪にしたが不安定だったので馬車と同じ四輪にしたもののうまくいかず思い切って二輪にすることでようやくイメージ通りになったという。
東京府は「人車」を「人力車」と変えさせて次の<条件付き>で許可した。
・通行人に迷惑をかけないこと
・料金は低廉であること
・貴人、巡邏(ら=羅、回)兵に遭遇したるときは脇道によけること
・火事が起きたとき、消火活動の邪魔にならぬこと
明治8年刊の『東京名所図会』には「明治三年春、始めて四五輌の車を製造した者があって、日本橋のほとりに列(なら)べ、人力車と名づけて看板を出した」とある。しかし当時の人々はこれを<卑しい>ものとして乗るのを嫌がった。車賃も日本橋から両国まで12、3銭だったのを従前の駕籠屋たちは、口汚くこれをあざけった。日本酒が1.8リットルで上等4銭、中等3銭4厘、並等2銭2厘だったからかなり高かった。しかしその後、車賃が下がり道路も改修されたので日に日に利用者が増え、6年8月には「市内の車の数は三万四千二百輌余にも及び、街にはもう一つの駕籠も見ることができなくなった」と伝えている。
いまやどこの観光地でも観光人力車が大はやりだが「リキシャマン」だけでなく「リキシャガール」もちらほら。いや、今風にいうなら「リキシャ男子」に「リキシャ女子」か。