“3月20日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1882=明治15年 上野動物園の開園式が明治天皇を迎えて盛大に行われた。
麹町の山下門にあった博物館が上野恩賜公園に移設されるにあたり天産部=天然産物の展示のための付属施設「恩賜上野動物園」として誕生することになった。公園一帯は「上野戦争」で寛永寺の伽藍のほとんどが焼け草ぼうぼうの荒地の丘陵が広がっていた。そこにまず公園が2年がかりの工事で完成して内国勧業博覧会が開催された。その跡地に恒久施設第一号として作られたのが動物園だった。いまは花見客で大にぎわいどころか大混雑になるあの桜もまだ育っておらず博物館と同じ農商務省の管轄としてスタートしたが4年後にはなんと宮内省に移管された。
展示の目玉は水牛、猿、ワシだったが、ハリモグラ、アホウドリ、牛、馬、シマフクロウ、トキにまじってニホンオオカミが飼われていた。87年にはトラ、88年にアジアゾウ、89年にヒョウ、07年にはキリンがやってきた。当時の入園料は平日1銭、日曜は倍だったにもかかわらず都民の人気を集めた。それにしても国内では絶滅したトキやニホンオオカミが<その他>となっているのは当時、国内に多く棲息していたからだろう。どこで捕獲されたのが持ち込まれたのか興味深い
天皇を迎えて、と書いたが天皇の髪型にも触れておく。なぜかというと1873=明治6年のちょうどこの日にまげを切った、つまり散髪したとされるから。
「断髪令」の名称で呼ばれる「散髪脱刀令」が明治政府から出されたのは1871=明治4年8月だったがまげを<切るべし>ではなく<勝手たるべし=自由にしてよろしい>ということだったので認知度というか浸透はまだまだだった。
この年11月に政府の重鎮だった岩倉具視が岩倉使節団を率いてアメリカに向けて横浜港を発ったときは他のメンバーはほとんどが「洋髪・洋装」だったのに岩倉は羽織袴姿でまだまげがあった。これは記念写真に残っているが、渡米後にあまりの<時代遅れ>を恥じたのかシカゴで散髪した。帰国後はさっそうと洋装に着替えて天皇にあいさつに行ったはずで「朕もいよいよ」となったのか。
ところで日本人で初めて洋髪にした人物は、ジョン万次郎こと中浜万次郎だろう。漁に出て嵐にあい無人島の鳥島に漂着しているところをアメリカの捕鯨船に救助された。1851=嘉永4年に帰国し、土佐藩に次いで幕府に仕え幕末の日米和親条約の締結などに尽力した。彼が洋髪で帰国したのが「散髪脱刀令」の20年前だったが開明的な考え方を身に付けていただけに<髪はそのまま>にしていたはずだ。
報知新聞の記者だった篠田鉱造の『明治百話』(岩波文庫)には「数寄屋橋の松竹床」として数寄屋橋見附にあった理髪店・松竹床(まつたけどこ)の主人の話が紹介されている。
あるとき川越の旧藩主の川越大和守が15、6歳の若殿を同道して「若殿を刈って貰いたい」とおっしゃる。ご家来が3人ほど付き添い、縮緬の羽織に御髪(おぐし)も房々と、見るからに凛々しい若殿ぶりで。いよいよ櫛と鋏を持って後ろへ廻るてえと、御家来が「御髪が散りませんように」といって盆を差出して刈り落とした髪を受ける。すると殿様が「盆の上へじかではいかん。紙を敷け」とおっしゃるので、盆へ奉書を敷く。そこへジョキジョキと切(や)りました。
この髪型を散切り=ざんぎりとか斬切りと呼んだが、当時はやった流行歌に「散切り頭の唄」、別名「書生節」に歌われている。
散切りアタマを叩いてみれば
文明開化の音がする
書生書生と軽蔑するな
末は太政官のお役人
宮中ではどうだったのかはわからないが<盆に奉書>どころではなく、大騒ぎだったかも。天皇みずから散髪して洋髪を奨励したわけで上野動物園の開園式はそのあとだから当然ながら洋装、しかも大礼服姿であったろうと、しもじも=私は想像しているわけであります。
*1815年 ナポレオンが地中海のエルバ島を脱出して1年ぶりにパリに帰還した。
もちろん1人で脱出したわけではない。兵士千人、大砲を積んだ7隻の軍艦がナポレオンを迎えに行った。エルバ島の領主として追放されていたのだから船さえあれば脱出はたやすかったわけで、パリに戻ると皇帝の権威を取り戻すことに成功した。農民はナポレオンを歓迎し、勝手の部下たちも馳せ参じた。
<農民皇帝・ナポレオン>ワーテルローの戦いでイギリス・プロイセンなどの連合軍に完敗するまでの復位は「百日天下」と呼ばれる。そして再び流されたのは南大西洋の孤島・セントヘレナ島でここでは幽閉生活が続き、1821年に死去した。
死因は病死やヒ素などによる暗殺説などさまざま。多くの逸話だけでなく死因もまた。