“3月21日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1909=明治42年 わが国で初めてのマラソンが開催された。
大阪毎日新聞社が主催した「阪神間二十哩(マイル)長距離競走」で神戸の湊川埋立地(現・新開地)をスタート、大阪の西淀川大橋(淀川大橋)ゴールの32キロの区間で争われた。快晴ではじめての競技というもの珍しさもあって沿道には多くの応援者が詰めかけ、400人以上の予選を勝ち抜いた上位20人が参加、午前11時30分にスタートした。
ゼッケン4番、鳥取県粟倉村(現・智頭町)からやってきた25歳の在郷軍人・金子長之助は前半7位と出遅れたが、25キロの芦屋で2位、30キロ手前の西宮でトップに躍り出てそのまま2位に5分の大差をつけ2時間10分54秒でゴールした。
金子は1メートル61センチ、56キロのがっしりした体格で、日頃は郵便配達を請け負って重い荷物を担いで毎日往復9里(33.7キロ)の峠道を歩き通している健脚自慢。この日も地下足袋の上にわらじをはいて走り出したが、15キロ地点で紐が切れたのを脱ぎ捨てて逆に調子が上がったという。
1着賞金は当時の1戸建ての貸家の10年分の家賃にあたる300円。副賞には優勝旗、金時計、日本酒4樽が贈られた。と、ここまではともかくとしてまだあった。銀屏風、桐箪笥、双眼鏡、アコーデオン、香水、首をかしげたくなるのもあるが<豪華景品>には違いない。記者諸氏も現在のようにスポーツの専門的知識はなかったとみえて「疲労も知らず、顔に呼吸も切れず、汗さえ出さず、武士の勝っても驕らざる姿にも似たる」と書いた。
ではその後、金子は「陸上競技界」で活躍したのか。金子は母親の猛反対もあってオリンピック予選への出場も断念し、婿入りして農家を継ぐ道を選んだ。
3年後に開催されたスウェ―デン・ストックホルムでのオリンピックには「日本マラソンの父」金栗四三が参加したが途中棄権した。当時、北欧までは20日以上かかったこともあり体調不良だったのとホテルへの車の手配ミスで会場まで走って行ったのがこたえたともいわれる。参加選手の半数が同じく途中で棄権、倒れたポルトガル代表選手が翌日死亡するという過酷な「炎熱レース」で、金栗も日射病で気を失った。
つまり、ただ1度のマラソン優勝だけで再び走ることはなかったから、金栗とまみえることもなく、どちらの走力が優れていたかはわからない。後年、64年の東京オリンピックのマラソン中継を見ていた金子が、息子さんに「若かったらあのアベベと一緒に走りたかったなあ」とつぶやいたという。「自分が思った道を行け」とは何度もいったが、趣味として走ったこともなく<陸上に未練があった>とは一度も口にしなかったとも。
その5年後、老衰のため86歳で逝去。金栗も箱根駅伝創設に尽力し83年に92歳の天寿を全うした。それぞれが栄光を超えた<人生のゴール>を駆け抜けたことだけは間違いない。
835=承2年 平安時代の僧、弘法大師空海が60歳で入滅した。
死の4ヵ月前、空海は弟子たちを集めると「吾、入滅せんと擬するは今年3月21日の寅の刻(=午前4時)なり。もろもろの弟子等、悲泣することなかれ」と言ったとされる。その予言通りの日時に大往生を遂げた。
<史実より伝承が多い>とされる空海だからこれも伝承ではあるが命の最後まで濃密な活動を行い「永遠の禅定」に入ったとされるからあるいはそこまで見通せたのか。その3年前、高野山での最初の万燈万華会の願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡なん」と書きすべてやり尽くしての死だった。
*1951=昭和26年 日本初の総天然色映画『カルメン故郷に帰る』が封切りになった。
木下恵介監督がメガフォンをとった松竹大船作品。ほぼ全編を浅間山麓の北軽井沢でロケ撮影された。戦後の自由である意味で軽薄な風潮と、対極にある世論を風刺した軽快な喜劇のなかに家族や夫婦の情愛がきめ細かく描かれた秀作であると評価が高い。
ここで育った村娘おきん(高峰秀子)は家出して東京に出てリリィ・カルメンという名のストリッパーになっている。自分の踊りは裸を見せることではなくあくまで芸術だと信じて疑わない彼女は、ある秋、仲間の踊り子・マヤ朱美(小林トシ子)と故郷に錦を飾ろうと思い立つ。芸術家の里帰りと聞いて喜ぶ校長先生(笠智衆)だったが、父親の田口春雄(佐野周二)は熱を出して寝込んでしまう。
カラーフィルムを提供し現像まで手がけた富士フィルムも、社を挙げて協力した苦心作で見事に「国産カラー第1号作品」となり翌年には続編(『カルメン純情す』)も製作された。両方の作品とも助監督は松山善三で、その後、高峰秀子と結ばれることに。これには世間もあっと驚いた。マスコミを集めての婚約記者会見は「芸能人第1号」として話題になりました。