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“3月22日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1931=昭和6年  無季俳句の篠原鳳作(本名、國堅=くにかた)が宮古島の中学に赴任した。

沖縄・那覇を出た台湾・基隆(キールン)行きの定期船は宮古島の平良に寄港した。漲水(はりみず)港と呼ばれたコバルトブルーの海に真っ白な砂浜が美しい別天地。週1便なので下船客は多かったがそのなかで背広三つ揃いに白シャツ、蝶ネクタイ、ソフト帽に皮のトランクを提げた長身痩躯の人物はひときわ目立った。篠原25歳。前年に新校舎落成で開校した沖縄県立宮古中学校の英語科と公民担当で着任した新任教師だった。

篠原は鹿児島市出身、20歳で東京帝国大学法学部政治学科に入学し4年後に卒業している。そう書いたのは優秀な成績で留年もせず卒業したが年齢が高かったから念のため。在学中に<未踏>の俳号で俳誌『ホトトギス』に入選した。小津安二郎が『大学は出たけれど』という映画で世相を皮肉ったように第一次世界大戦後の不景気のまっただなかで気に入った仕事がなかなか見つからず故郷に引き揚げた。福岡市の俳誌『天の川』に投稿したり、鹿児島に支部を作ったりしているときに教師の口がかかった。

体は病弱ではあったが東京帝大卒の<学士サマ>だから、周囲からは辺境の島にわざわざ行かなくても、などの意見は当然あっただろうが青年は自身の「夢」に賭けた。風光明美な島の港に迎えに来てくれた子供たちのほとんどが裸足で、学校の建物は新しかったが生徒の家庭は極貧にあえいでいた。男性を「びきどぅん」、女性を「みどぅん」、ありがとうは「まいふが」など、ちょっと聞いたくらいでは理解できないなまりの強い方言にもようやく慣れて新天地での3年間を過ごした。この間『天の川』に<鳳作>の俳号で発表した「海の旅」シリーズの

  満天の星に旅ゆくマストあり
  しんしんと肺碧きまで海の旅

などの句が新興俳句運動の旗頭で、季語を用いない「無季俳句」は俳句とは呼べないと攻撃する最右翼の水原秋桜子に<無季第一の作家>と認められたことで当時の俳壇に大センセーションを巻き起こした。

1934=昭和9年、28歳で母校の鹿児島県立第二中学校教諭として転任、翌年、鹿児島銀行の頭取の4女と結婚し長女が誕生する。

  赤ん坊の蹠まつかに泣きじゃくる  蹠(あうら=足裏)
  太陽に襁褓かかげて我が家とす   襁褓(むつき=おしめ)

など生命の躍動を一気呵成に表現する作品を残したが1936=昭和11年9月17日に身重の妻と長女を残して心臓マヒで逝去した。享年30歳。

あまたの俳人がいるなかでなぜ篠原鳳作を紹介したかというとこの蚤野久蔵「しんしんと」の句が好きで開聞岳を望む指宿・長崎鼻にある句碑をわざわざ見に行ったこともある、ということでお許しいただく。

*1908=明治41年  東京西大久保村(現・新宿区)で銭湯帰りの人妻が殺される事件が起きた。

別名「出歯亀事件」。新聞はセンセーショナルな猟奇事件として取り上げ、捜査員に張り付いて報道合戦を繰り広げた。月末になって容疑者として35歳の植木職人の池田亀太郎が拘留され、4月4日に犯行を自供したとして逮捕され、号外まで出された。

記事は「飲食して夜、女湯を板塀の節穴より覗くうち、被害者の着衣する姿を見て欲情し、帰途を待ち受け暴行致死した」と書かれたが、池田は出歯ではなく不揃い程度だったともいわれる。仕事仲間は彼の性格や行動を何にでも首を突っ込む「出しゃばり(出張=でば)な性格だ」と表現したのを、記者が「出歯」と聞き違えて<スケベな出歯の男が女湯をニタニタ覗いていて欲情した>と書き、それが<覗き見=出歯=スケベ説>に。

森鴎外もこの事件を『ヰタ・セクスアリス』の主人公・金井湛(しずか)君の見聞として紹介しているし、事件以降「出歯の御仁」はえらく迷惑した。

*2004=平成16年  高知競馬で105連敗中の「ハルウララ」に武豊が騎乗した。

武は中央競馬のスター騎手だから1万5千人がつめかけるという空前の騒ぎになった。単勝馬券だけで1億2千万円、1日の売り上げも8億7千万と高知競馬史上最高記録だった。しかしレース結果は11頭中のブービー・10着で競馬場全体にため息が漏れた。

はずれ馬券は<当たらない=交通事故防止>として「お守り」にした人が大半だったとか。
その後『ハルウララ物語』、として映画にもなったが引退後は行方不明という。走り続けていればもっとすごい(連敗)記録が生まれたかもしれない。

「ウマのほんとうのしあわせ」って何でしょうね。

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