1. HOME
  2. ブログ
  3. “3月23日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

“3月23日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1842年  小説家・批評家スタンダールが未明にパリの病院で息を引き取った。60歳。

前日、フランス外務省を出たところで脳出血を起こして路上に倒れた。偶然その瞬間を目撃した友人が病院に担ぎ込んだとされる。

『赤と黒』『パルムの僧院』『恋愛論』くらいはすぐに挙げられるが「では読んだのか」となると小説のほうはちょっと覚束ないが『恋愛論』のほうは何かの参考にしたこともあるような。
多くの警句を残した。

「愛は文明の奇跡である」
「美貌は必ずしも幸福を約束するということはない」
「妻を失ったフランス人の男は悲しみにくれるが反対に夫を失った寡婦たちは陽気で幸せである」
「涙は言ってみれば究極の微笑である」

書き留めていたわけではないので気のきいたのは思い出せないのが残念。でも少なくともこれではなさそう。「何の参考に?」まあ、そんなことはどうでもいいじゃないですか。

本名はアンリ・ベール。グルノーブル高等法院の弁護士だった父には強い反感を持ち続けたが7歳の時に亡くなった母親は終生慕い続けた。母方がイタリア系だったこともあり、一時はイタリア・ミラノで暮らすなど<イタリア人として死ぬ>ことを望んだ。
モンマルトルの墓地にある墓碑は「アンリ・ベールの墓、スタンダール」その下に「ミラノ人アッリゴ・ベイレ 生き、書き、愛した」と刻まれている。

先日、ある文学賞で受賞した作家がペンネームを11も持っているというのを聞いたが、スタンダールは、というかアンリ・ベールは170もの筆名を持っていたことが知られている。なぜそんなにたくさん必要だったのだろう。

歌手なら「松山まさる」→「一条英一」→「三谷謙」そして「五木ひろし」で大歌手になった例は有名だけど。

*1890=明治23年  伊豆・下田の川で女性の身投げ死体が見つかった。

それが一時は「唐人お吉」として羽振りが良かった元芸者の「お吉」と判明する。本名は斎藤きち。船大工の次女だったが14歳で芸者になった。1857=安政4年に初代のアメリカ総領事ハリスが玉泉寺に領事館を開設したが異国暮らしで体調をこわしたため領事館側はハリスの身の回りの世話をするための看護婦のあっせんを頼んだ。ところが看護婦という英語もわからなかった幕府の役人は「お妾さん」と勘違いして芸者のお吉に白羽の矢が立った。幼馴染の婚約者がいたお吉は固辞したが役人の度重なる説得に折れて領事館につとめることになった。

外国人と話をすることさえ偏見があった時代、はじめはお吉に同情的だった下田の人々も次第に羽振りが良くなるお吉に反感を覚えるようになっていった。ハリスが回復したので3カ月後に芸者に戻ったが世間の冷たい目に耐えられず横浜などを転々とした。

その後、下田に舞い戻ったときには酒に溺れ、昼間から酒臭かった、つまりアルコール依存症ですな。身投げする前の数年は物乞いするなど生活に困窮していたと伝えられ、死後も実家の菩提寺の墓には入れてもらえなかったという。

享年50。彼女の悲話は死後、多くの小説、戯曲で紹介され、映画はサイレント時代から取り上げられたことで、いまや下田といえば「唐人お吉の悲しい物語で知られる」といわれるのも何だか皮肉ではある。

*1774=安永3年  京都郊外の野に立って与謝蕪村が名句を詠んだのが江戸時代中期のこの日。

有名な「菜の花や 月は東に 日は西に」であると高弟の几菫(きとう)が書き残している。
俳人・金子兜太は『日本の名俳句100選』(中経出版、2003)でこう解説する。

春の夕暮れ
東と西の空の下方に、満月と夕日が同時にかかっている
両者の間にあるのは、一面の菜の花
この雄大な景色を写実的に詠う
春霞の中、東西に浮かぶ二つの天球が
菜の花色の、もの憂い微光を放っている

さすがにうまい!

関連記事