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“3月24日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1185=文治元年  源平の命運を分けた「壇の浦の戦い」で平家が滅亡した。

瀬戸内海を西に進んできた源氏と、関門海峡の西出口の彦島の陣を捨てて東へ進んだ平家は海峡の<東のくびれ>の「早鞆の瀬戸」の一角、壇の浦で対峙した。

『平家物語』は、九州側の門司と本州側の赤間の間にある壇の浦は「たぎりおつる塩(=たぎり落ちる潮)」で、源氏の舟は潮に押し戻されたが平家の舟は潮に乗って出てきた、と。
緒戦の午前中、潮流は「東流」だった。

吉川英治の『新・平家物語』は
「ここの岬角と、向こうの長門赤間ヶ関の岸とは、海面わずか六町十二間しかへだてていない、その狭いあいだの急潮流が、万葉人のいった隼人の迫戸(せと)いまの早鞆ノ瀬戸なのだ。壇ノ浦は、その口のくびれを越えた所から、東岸一帯の、長門寄りの地名である」。
六町十二間は675メートルだから、つまり狭い海峡に両軍合わせて千数百艘がにらみ合い、旗印が白の平家が九州側、赤の源氏が本州側に陣取った。

「国民作家」といわれた人気作家は敗戦でいったん筆を折るが朝日新聞社からの依頼を受けると執筆前に前もって盲腸の手術をして長期連載に備えたという逸話が残る。つまり<並々ならぬ決意>で朝日新聞社の全面的なバックアップを受けて現地取材を重ねた。『平家物語』や『義経記』、『吾妻鏡』だけでなく古典や資料を広く渉猟して構想を練りあげ、1950=昭和25年に『週刊朝日』での連載を開始した。

時代も味方した。それまでは自由には触れられなかった天皇、法皇、妃や愛妾たちの葛藤をつぶさに見据えることができた、つまり<歴史の実相>に肉薄してみせたことで大人気となった。

戦況を概説しておくと午前中は平家の攻勢だったが、午後からは次第に源氏の優勢に変わり、二位尼に抱かれた安徳天皇が入水。平知盛、家長、経盛、教盛、行盛、資盛らの武将も続き、平清盛の娘で天皇を生んだ徳子(後の建礼門院)は入水したものの引き揚げられた。

戦いが決したのは3時前とも4時前ともいわれるが午前中に終わったとする説も根強い。
勝敗に潮の流れが大きな影響を与えたという<潮流説>を1914=大正3年に黒板勝美・東京帝大教授が自著で展開しているが、同じ潮流のなかにいれば双方の<相対速度>は変わらないので戦況に影響はないとする説もある。

当日の潮流を詳しく検証した気象博士の荒川秀俊は『お天気日本史』(文藝春秋、1970)で「東流開始8時25分、最強10時26分、0.8ノット(=時速1.5キロ)、西流開始13時27分、最強15時54分、0.6ノット(=時速1.1キロ)」で月齢などからも「潮流は弱かった」が定説になっている。

緒戦の優勢に気を良くした平家側が一気に決着をつけようとして矢を射過ぎてしまい、その後は陸上からも源範頼軍に射かけられて水手・舵取りらが次々に倒れてしまった<作戦失敗説>もある。

上空を舞う鳥の目でもとらえた『新・平家物語』の描写はいまでも飽きさせない面白さがありますな。

書き加えると、近年の研究では河野水軍など瀬戸内海の<制海権>を握っていった義経率いる源氏に対し、平氏方は水軍の一部の寝返りなどもあった必然的帰結であったとされる。

自明だが「戦」も「戦争」も「戦争と名のつくもの」は<短期決戦>ではダメなわけですね。

*1928=昭和3年  わが国のファッションモデル第1号とされる「マネキン・ガール」が登場した。

東京・上野公園博覧会で開催された百貨店協会特設展に高島屋呉服店が企画した。「画に遊ぶサロン」コーナーには着物を着た人形が並んでいたが、ソファに座っていた一体が突然立ち上がり見物人を驚かせた。

名前は「花子さん」といった。仕掛け人はアメリカのファッションショーを見てきた美容師の山野千枝子。翌年には「東京マネキン倶楽部」を創設し職業美容師の育成などに尽力する。当時は単なるモデルではなく売り子も兼ねていたという。

山野ははじめフランス語のマヌカン(mannequin)を考えたが「<招かん>とはなんだ。客がこなくては縁起でもない」という横やりが入ってしてマネキン=<招きん>となったとか。本当かねえ。

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