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“3月30日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1889年  フランス・パリにエッフェル塔が完成した。

「フランス革命100周年」を記念して開催された「パリ万国大博覧会」のモニュメントとして建設された。設計した高架橋技師ギュスターヴ・エッフェルの名を取って名付けられた。建設当時は312mの高さだったが放送用アンテナが設置されたので現在は324mだそうな。

先端にひるがえる三色旗を見てエッフェルは
「世界広しといえども300mの旗竿を持っているのはフランス国民だけだな」と自賛した。反面、あまりに奇抜な外見だったため当時は賛否が渦巻いた。
反対派の文学者モーパッサンは塔1階のレストランに好んで立ち寄る理由を
「ここがパリのなかでいまいましいエッフェル塔を見なくてもすむ唯一の場所だからな」と。
万博後は来訪者も減り、当初の契約から20年後の1909年に解体されかけるという危機もあったが「軍事用の電波塔」として残された。現在ではパリを代表するシンボル。塔を含むセーヌ川一帯が世界遺産登録されたのでパリへ行ったらぜひ上って見たいという方も多いのでは。

パリ通の友人に聞いた話。
上階の展望台まではネット予約で大人13.1ユーロ、しかし旧式のエレベーターは切符の有無には関係なく<先着順>だから、混んでいると数時間待ちは当たり前とか。しかもエレベーター内や展望台はスリ多発に要注意!ですと。つまり事情通は敬遠するから<お上りさん>が狙われるわけです。

*1190=建久元年  桜満開のこの日、西行が73歳の人生を閉じた。

旧暦2月16日とされるが諸説あるのでここは饗庭孝男の『西行』(小沢書店、1993)から引く。

実はこの『蚤の目大歴史366日』を始めるにあたり悩んだことがある。それは旧暦と新暦がある「この日」の扱い。ご存じのように1872=明治5年12月3日から新暦になったからその前後で分けるのかどうか。もうひとつは「諸説あり」、つまり異同のある日をどう扱うか。旧暦にはさらに新暦とは違う「閏(うるう)」もある。そうなると換算が面倒なので他の出版物にならって改暦以前は陰暦、その後は新暦をそのまま使うこととした。諸説ある場合はできるだけ出典を添えることとした。

西行を例にしてみよう。晩年この歌を詠んだ。

  願わくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ

花はもちろん桜で、歌の通り陰暦2月16日、釈迦涅槃の日に入寂した。釈迦涅槃の日は偶然にしても「満開の桜」の季節に亡くなったわけだ。

さらにこの<奇跡>を際立たせるような歌がある。

  仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば
  散る花も根に返りてぞ 又は咲く老いこそ果ては行方知らねば

「仏」は自らの死後の存在。たしかに桜はふたたび根に戻って春が来ればまた咲くだろうがこのわが身の行く末はわからないと自問した。

そこで本題。西行が「2月16日」に入寂したと紹介するとせいぜい梅の季節、だからここはあえて新暦の「3月30日」に紹介するゆえんである。

*1853年  画家ゴッホがオランダに生まれた。

伯父の美術商を手伝ったり牧師をめざしたりしたが1880年からベルギー・ブリュッセルで画家をめざそうとデッサンの勉強を始め6年後にはパリに移住しロートレックらと交遊する。88年からはゴーギャンと南フランスのアルルで共同生活を始めるがやがて精神を病んでしまう。

そんな中で1890年3月はゴッホにとって忘れない月になった。ブリュッセルで開催された「20人会展」という展覧会でアルルの農作業風景を描いた「赤い葡萄畑」が400フランで売れたのだ。これが生涯でただ1点だけ売れた作品となった。
その5カ月後に猟銃自殺した。

この作品はモスクワのプーシキン美術館に収蔵されているが、とんでもない高値でオークションに出品されるたびに話題になるゴッホ作品。当時はアルルの村人に贈った絵が鶏小屋の穴をふさぐのに使われていたとも。

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