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“4月1日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1906=明治39年  東海道線の急行列車の三等車に和食・食堂車が連結された。

なぜ和食と区別したかというとこの5年前、1901=明治34年12月15日から新橋―神戸間の急行に連結された食堂車は洋食で、利用できたのは一等、二等車の乗客のみだったから。
定員は30名、両側の窓に沿った幅1尺5寸(45cm)の<通しテーブル>に一本足の丸回転椅子で片側15名ずつだからいまのファストフード店の窓際のような感じだろうか。窓外の風景を楽しみながら食事ができるとのが評判になった。メニューは御飯、煮しめ、汁に香の物で20銭。近江・瀬田名物の「しじみ汁」が特に好評だった。

しかし戦火が激しくなった1944=昭和19年3月いっぱいで戦力増強をめざす「戦時物資重点輸送」のためにすべての食堂車の営業が停止となった。日本食堂は長距離客のために東京、上野、稚内、長崎でこの日から駅売り「五目弁当」の販売を開始した。15日からは「鉄道パン」も併売したというがどんなパンだったのでしょうね。

*1912=明治45年  吉本興業が大阪・天満天神裏の寄席「文芸館」で初の幕をあけた。

創始者の吉本吉兵衛(後に泰三)せい夫婦が売りに出された館を権利金200円で買い取り、よその寄席の3分1の木戸銭5銭という超安値で開業した。出し物は落語の他に物まね、音曲、軽口、曲芸と<色もの>オンパレードが安さも受けて大繁盛、3年後には「花月亭」と改めた。

夫の泰三は1924=大正13年に急逝したが、しっかり者のせいは落語の桂春団治、漫才のエンタツ・アチャコを売り出すなど経営者としての才能を開花していまや<総合笑社>といわれる「吉本お笑い王国」を築いた。2012年でちょうど創業100年を迎えた。

*1931=昭和6年  わが国はじめての「エア・ガール」が誕生した。

民間航空・東京航空輸送の募集に応募した141人から3名が採用された。東京―下田間の水上飛行機での風景説明やお茶のサービスが仕事だったが、機内が狭く給料が安かったので29日には全員が辞めてしまった。

当時は何にでも「ガール」を付けて新しがった時代、マネキン・ガール、エレベーター・ガール、バス・ガール、円タク・ガールまでは分かるとして、ガソリン・ガールはガソリンの給油係、レビュー・ガールは劇場の案内嬢、ステッキ・ガールは金持ち旦那が街歩きに連れ歩いたとかで、あくまで表向きは、です。

「空の麗人」「空中女給」と呼ばれた時代からスチュワーデスが長く続いたが、現在はキャビンクルー、フライトアテンダントを和訳した客室乗務員と呼ばれる。雇用形態も変わって派遣会社から、というのもあるそうだがまだまだあこがれの職業ではあります。

*1914=大正3年  宝塚婚礼博覧会の初日を祝って宝塚少女歌劇団1期生が初演した。

演目は「桃太郎の鬼退治」を歌劇にした『ドンブラコ』4幕で主な配役は
桃太郎:高峰妙子(14)お爺さん:外山咲子(15)お婆さん:雄嶋艶子(16)猿:雲井浪子(12)犬:八十島楫子(14)雉子:由良道子(12)村人の音頭取:關守須磨子(15)。

彼女たちの演技ぶりを毎日新聞は
「特に愛らしいのは五人の音楽家と三人の教師によって仕組まれたる十七人の少女歌劇団が無邪気な歌劇『ドンブラコ』で意外に整頓したオーケストラや、合唱独唱や若い天女のような数番のダンス等にて、是等若き音楽家等は何れも良家の児の音楽好きを選べるに特にこの七人は天才と称せらるゝものなり」
と絶賛している。

のちの「清く 正しく 美しく」の前段階は大正期の少女達の「無邪気」「天女」「天才」のイメージが使われた。いずれも小林一三が「小倉百人一首」からとり、在団中は本名を明かさず芸名で通した。高峰はソプラノを歌い、宝塚名物になる男役スターの第一号となった。

季節はちょうどスミレのシーズンではあったが宝塚を代表する『スミレの花咲く頃」は1930=昭和5年の『パリゼット』で歌われた。

  スミレの花 咲く頃
  初めて君を 知りぬ
  君を思い 日毎夜毎
  悩みし あの日の頃

もとは<追憶の歌>だったそうです。

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