“4月3日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1964年 アフリカで200万年前の原人の化石が発見され世界を驚かす大ニュースになった。
発掘したのは英国の人類学者ルイス・リーキーでそれまでは数十万年前とされていた人類の起源を大幅に書き替えた。英領東アフリカと呼ばれていたケニアで宣教師をしていた両親の間に生まれた。ケンブリッジ大学在学中に大英自然史博物館の東アフリカ発掘チームに入り調査に同行、この時の経験から将来の目標を宣教師から人類学者に方向転換する。大学の専攻を人類学に変えトップの成績で卒業したが在学中からアフリカの考古学、古生物学の講義をするなど才能を示した。
調査の中心はアフリカ大地溝帯にあるタンザニア北部オルドヴァイ渓谷での発掘だった。ここで「猿から人へ」のミッシング・リンクをつなぐ旧人類の化石骨を次々に発掘した。64年に発見したのは、完全な頭骨と彼らが使った原始的な石器で、リーキーは直立二足歩行をしてもっとも原始的な石器を使うところから英語名handy man(=器用な人の意)の「ホモ・ハビリス」と名付けた。
リーキー博士は終生を古人類の研究にささげ、72年10月1日にロンドンにて69歳で死去、両親の眠るコンゴの大地に葬られた。
博士は年中発掘に明け暮れていたわけでその成果を「この日」とするにはいささかのためらいはある。中には数年がかり、数十年がかりで成果がつきとめられたというケースも多くあり、一連の発見で「人類のアフリカ起源」は揺るがないものになったわけです。
私もそうだが皆さんもリーキー博士が発掘した「猿人の復元図」をご覧になって「これが現生人類に本当につながるの?」という疑問は当然ながら持たれたはず。それぞれの猿人が枝分かれして、さらに分かれてそのまた先で・・・。枝のほとんどが消えていくなかでたったひとつだけが生き残ったのだそうで。
1582=天正10年 甲斐に攻め込んだ織田信長方の軍勢が恵林寺(えりんじ)を焼き打ちした。
3月11日の天目山の戦いで武田一族は滅亡したが、各地でその<残党狩り>が徹底して行われた。武田方に応援するため近江から出陣して寺内に匿われた六角承禎らの引き渡し要求を、住職の快川和尚が「たとえ寺が滅んでも渡しませぬ」と拒否してとうとう焼き打ちにあう。老若114人の僧侶とともに山門に押し込められ火を放たれた。楼上にのぼった快川は紅蓮の炎のなかで「安禅は必ずしも山水をもちいず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と唱えたと伝わる。
甲州市塩山にある恵林寺はその後、甲斐を領した徳川家康により再建された。武田信玄の墓所と並んで晩年、甲府城の城主となった徳川幕府の大老・柳沢吉保の墓もあるというのも歴史の変遷を感じるというか。
*1911=明治44年 午後1時から東京の中心、日本橋の開通式が行われた。
新聞は「日本橋開通式 華美壮麗雨中の盛儀」の大見出しに続いて
「朝来、春雨蒸々として下りて、正午すこし前よりは気冷やかに秋の雨のごとく降りしきる。しかれども待ちかまえたる百万の市民は、雨降らば降れ、風吹かば吹け、この盛儀を見逃して成るものかと、午前中より押し寄する者、引きも切らず」
と伝えた。
あいにくの雨で多少の風もあったようだがここまでは特に何も起こらなかった。
<永久に帝都の中心を飾るにふさわしい荘厳なる橋>という前宣伝が効いたのか周辺からの見物人も押しかけたから日本橋周辺は群衆で埋まった。そしてこの混乱がとんでもない群衆事故を引き起こしてしまう。
朝日新聞は続いて「橋南橋北の大雑踏 混乱の極負傷者を出す」と伝えている。
「幾万の群衆は未だ式の全く終わらざるに早くも長堤の一時に決せるが如き勢いにて、潮の如き唸りを立てつつ此の新橋を渡らんとす」
となってしまった。
式典に招かれた日本橋や柳橋の芸妓連の<きれいどころ>はこの勢いに呑まれて逃げ惑い数十人が橋上に押し倒された。憲兵、巡査や騎馬巡査が力を合わせて一時群衆を追い散らした間に
「芸妓連は僅かに一方の血路を開いて逃げ出したる」
とほうほうの体で逃げ出したわけです。
群衆のなかでは喧嘩がはじまるわ、帽子は飛ぶわ、下駄が脱げても下も向けず、和服の紐が千切れ、傘が破け「声を挙げて救いを求むるあり、叱するあり、叫ぶあり」とまさに阿鼻叫喚の巷と化してしまった。
不思議なのはいまの新聞と違ってけが人の氏名などの記載は全くないところ。とにかく「負傷者十数名が出た」ことだけは確かなようです。