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“4月4日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1883=明治16年  新聞にはじめて「天気実況」が登場した。

慶応義塾出版社発行の日刊紙、時事新報が掲載に踏み切ったもので東京気象台が天気図この年の2月16日から作り始めたのをいち早く取り入れた。
「日本国を縮小して、之を一呑みにする威なれば、此れより日本人の気象を濶達ならしめ、小胆近視の弊を救ふ」というご大層な口上付きだった。
かみ砕けば<日本国の縮小図を眺めるわけだから気宇壮大にもなるだろう>と。そうですかねえ。

実利面では米相場の抜け駆けや航海には役立ったがあくまで<実況>のみで<予報>が始まるのは5年後の1888=明治21年4月から。現在のような天気概況と予報がいっしょに掲載されることで一般の人にも天気報道がようやく親しまれ身近なものになった。

*1879=明治12年  琉球藩を廃し沖縄県とし初代県令に鍋島直彬を任命した。

こう書くと1871=明治4年の「廃藩置県」で<藩>はなくなったんじゃないのと思われるかもしれない。この時は<藩をそのまま県に置き換えた>ので3府302県もあった。府の数3はそのままだったが1872年に69県、1873年に60県、1875年には59県となった。

沖縄は1872年に政府の強制命令で琉球藩とされた。しかし琉球王国の尚泰王はこれに反発して政府のたび重なる勧告を無視して中国・清への貢物を続けた。琉球は薩摩藩の支配下にありながら清ともうまくやっていきたいという「両面外交」だったわけだ。

ところが明治政府は強引に沖縄県とする旨を宣言した。さらに尚泰王を華族に列して東京への居住を命じた。当然ながら清国からは猛抗議がきた。それをはねつけ琉球王国は完全に消滅する。これを「琉球処分」と呼ぶが見返りに尚家はその後、侯爵に叙せられて破格の経済待遇を与えられる一方、分家も男爵に叙せられた。

<身分と待遇とを引き換えに>というのは言い過ぎかもしれないが、結果からはそうだった。

*1935=明治38年  早稲田大学野球部が日本のチームとして初めて米国に遠征した。

日露戦争の最中ではあったが、初代部長をつとめた安部磯雄が当時最強と言われた一高を破り、直後の早慶戦でも慶応に初勝利したことで大隈重信ら大学当局を説得して実現した。安部は部員に「東京中の一流チームに全勝したら米国に遠征させてやる」と鼓舞してきたこともあってさぞや熱がこもった説得だったのでしょう。

遠征は3カ月にも及び、戦績は7勝19敗だった。しかし遠征の副産物のほうが大きかった。野球先進国・米国で投手のワインドアップモーションをはじめスクイズやバントの活用、スライディング技術、試合の戦術、練習法にまで及ぶ野球の基本技術を学んだ。
「脚絆足袋ノ旧時代去リテ、スパイク靴ヲ使用ス」と報告しただけでなくグローブや野球靴などの<現物>を持ち帰るなど大きな収穫を得て帰国した。

安部らはこれを独り占めせず、著書や他校への指導で野球の普及につとめた。それが夜明けから間がない日本の野球に<革命>をもたらした。安部は後年「日本初のナイター」と「戦前最後の早慶戦(1943)」を行った球場として知られる旧・安部球場にその名を残した。球場は東伏見に移転したが跡地に建てられた総合学術情報センターに胸像がある。

*1875=明治8年  木村屋のあんパンが明治天皇の<御試食の栄>に浴した。

木村屋は茨城県士族だった木村安兵衛が創業、前年考案されたあんパンは銀座の店舗で連日売り切れになる人気が続いていた。これを天皇に勧めたのは侍従の山岡鉄舟だった。この日、向島にあった旧水戸藩下屋敷の水戸家へ行幸の際に茶菓子として献上された。

次男の英三郎が酒まんじゅうと同じく日本酒酵母を含む酒種を使うことで日本人の口に合ったパンに仕上げた。このときに桜の塩漬けがはじめて取り入れられ天皇だけでなく皇后に気に入られ皇室御用達になった。

木村はいわば<リストラ武士>だった。新政府の職業授産所の事務職をしていた時に長崎のオランダ人宅でコックをしていた梅吉と出会い、新橋で前身となる文英堂を創業したが火事で店が焼け、銀座に木村屋として出店した。築地にあった後の海軍兵学校の紅玉社の御用達としてパンを納入、鉄道開通の新橋ステーションにも構内売店を出していたが再び火事で類焼、銀座一帯が「煉瓦街」として再開発されるなかで酒種あんパンを開発した。

旧幕臣だった山岡とは以前から面識があったようだが2度の火事にもめげずに商売を発展させている木村の応援になればと話を持ってきた。山岡はこの年、木村家の屋号も揮毫しているから自身もこのあんパンはお気に入りだったか。

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