“4月5日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1868=昭和43年 小笠原復帰協定が結ばれ旧島民全員の帰島が実現することになった。
30以上の島がある小笠原諸島は英語ではOgasawara Islandsだが江戸時代に無人島(=ぶにんじま)と呼んだのに由来してBonin Islands(=ボニン島)とも表記される。第二次世界大戦敗戦後の「サンフランシスコ講和条約」でアメリカ海軍の占領下に置かれ、欧米系の旧島民と家族だけが帰島していた。
協定の締結にあたったのは当時の三木外相とジョンソン駐日米大使で返還後は東京都小笠原支庁が設置された。翌年には無線電話回線が開通し4年目には東京電力の発電所が操業を開始した。国立公園に一括指定されていたのが2011=平成23年には「東洋のガラパゴス」としてさらにユネスコの世界遺産に登録されたことは記憶に新しい。
観光が経済の柱ではあるが就業者の30%が公務員。パッションフルーツ、マンゴー、パパイヤなどのフルーツやボニンコーヒーの栽培、塩、はちみつ、ラム酒の製造などが行われている。島魚を使った島寿司、海亀肉などが有名だが「ビーマカ」も付け加えておく。ビネガーがなまった魚の酢漬けだ。
*1927=昭和2年 神戸・鈴木商店が倒産した。
砂糖や台湾産樟脳を扱う商社が1902=明治35年に合名会社になり、小林製鋼所(神戸製鋼所の前身)やミカドホテルを買収。大正時代に入ると第一次世界大戦の情報戦で世界中の物資をこれでもかと買いまくったことで急拡大した。
播磨造船所(石川島播磨重工業→IHI)、日本金属、南洋製糖、帝国染料、信越電力、日本冶金工業、帝人などを次々に買収して傘下に収めることで一大コンツェルンに成長した。全盛期となる1919-20(大正8-9年)の売り上げは、日本のGNPの実に10%に達し、三井物産や三菱商事をはるかに上回った。資金を提供していたのは台湾銀行で、スエズ運河を通過する船の過半数が鈴木商店の所有といわれたほどだった。
新潟から始まった米騒動では1918=大正7年8月11日に神戸の本社と系列のミカドホテル新館が焼き打ちにあったが本社だけは再興を果たした。しかし関東大震災に続く昭和金融恐慌で<大戦成金>といわれたさしもの大商社もじり貧となり終焉を迎えた。
米騒動では内務大臣が「米価に関する各地騒擾に関係ある記事及び号外の発行をすること」を禁止して世情の鎮静に努めたが、金融恐慌では蔵相のうっかり発言の余波で渡辺銀行が休業、あおりで主力行の台湾銀行にも飛び火して資金繰りに窮することになった。
城山三郎は『鼠 鈴木商店焼き打ち事件』(文藝春秋、1966)で当時の大阪朝日新聞が米の買い占めという事実無根の<捏造報道で大衆を煽った風評被害>と書いたが、その痛手も大きく復活は成らなかった。
*1867=慶応3年 講談や浪花節の『東海遊侠伝』で有名な「荒神山の血闘」が起きた。
荒神山は現在の三重県鈴鹿市にある。そこへ漁船2隻に分乗した愛知の吉良の仁吉ら清水次郎長一家が乗り込んだ。未明に四日市港に着いたが警戒が厳しかったので港のはずれの海岸に上陸した。
仁吉の他に大政、小政ら次郎長一家の計22人で武器を入れた大きな長持ち2棹を持ち込んだとされる。相手方は縄張りを奪った伊勢の安濃徳一家だったが、双方を応援する博徒が総勢500人以上も加勢にやってきたのだからたいへんな騒ぎになった。
対峙すること4日。というのもおりしも地元の荒神山の各神社の年一度の祭礼で、祭りに合わせて賭場も開かれる。争いになれば1年の稼ぎすべてが吹っ飛ぶわけで、両者の調停に色々な面々が走り回ったが結局、不調に終わってしまう。
この日正午過ぎ、捕り手が駆け付ける寸前に血闘が始まり、わずか半時間ほどで終わってしまう。加勢の連中は遠巻きに見ていただけで実際にドンパチ、斬り合いをしたのは当事者?だけ。結果、死んだのは安濃一家が5人、清水一家は4人で清水一家の勝利ではあったが仁吉は撃たれたうえに刀で斬られて瀕死の重傷を負い、吉良に帰ったものの息を引き取った。享年28歳。
<義理に厚く若くして義理に斃れた>仁吉は人情物の講談や浪花節、演劇、映画に仕立てられてすっかり有名になった。現場近くの荒神山観音寺(鈴鹿市)には2代目広沢虎造が建てた「吉良仁吉之碑」があり年中供花が絶えないという。仁吉の出身地の愛知県吉良町では吉良義央(吉良上野介)、作家・尾崎士郎とこの仁吉を<吉良三人衆>として毎年6月に「仁吉まつり」が行われる。
鈴鹿も吉良もいずれも地元の皆さん<義理に厚い>わけです。