“4月9日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1952=昭和27年 羽田空港発福岡板付行の日本航空「もく星号」が行方不明になった。
ノースウエスト航空に運航を委託したマーチン202双発機で、乗客34名、乗員3名の37名を乗せ午前7時34分に羽田空港を飛び立ったが館山上空を通過後に行方不明になった。マスコミ各社が情報を入手したのは正午前。当日は暗雲が垂れこめてはいたが風雨もあまり強くはなく飛行に影響が出る天候ではなかった。高度2,000フィート(約600m)で館山を経由、10分後には巡航高度6,000フィート(1,800m)に高度を上げる予定だった。
夕刊の締め切りが迫るなか、朝日、毎日、読売の3社がニュースを担当する「にっぽん放送」が1時のニュースで「もく星号の乗客、乗員は全員救助されました」と流した。同じ内容がそのまま2時のニュースでも流され、夕刊には「漂流中を全員救助」という見出しが各紙に躍った。乗客の中には八幡製鐵の三鬼隆社長や長崎民有新聞の招きで「長崎平和復興博覧会」の会場で漫談を披露する予定だった漫談家・大辻司郎などがいた。
長崎民友新聞は唯一「危うく助かった大辻司郎氏」という写真付きの記事を掲載してしまった。「漫談の材料が増えたよ、かえって張り切る大辻司郎氏」の見出しに談話まで載せた。
「この事故で出演がおくれ、長崎の人にすまないと思っています。しかし、二度と得られない経験。ボクの漫談の材料がふえたわけで、わざわいがかえって福となるとはまさにこのことでしょう。平和博では、さっそくこの体験談をやっておおいに笑わせるつもりです。これから長崎に急行します」というもので、先行していた秘書が<全員救助>のニュースを福岡で知り、新聞社に連絡する際に気を利かせて創作した。
9日は米軍が空から、海上保安庁の巡視艇が海上を終日捜索したが機体は見つからなかった。翌10日は快晴。午前8時43分に日航の捜索機が大島・三原山噴火口の東側1キロ地点でバラバラになって散乱している「もく星」号の機体を発見。米空軍の捜索機から乗員がパラシュートで降下、生存者がいないことを確認した。米軍の航空管制下だった当時、機長もアメリカ人だったこともあり原因については管制ミス、機長操縦ミス、通信機故障から米軍の(誤爆)撃墜説などさまざまな憶測が飛んだが、通信記録もいっさい公開されないまま、わが国最大の民間航空機事故の真相は不明となった。
松本清張は1960=昭和35年から『日本の黒い霧』(文藝春秋社)で『運命の「もく星」号』、赤旗に『風の息』を連載し1992=平成4年には『1952年日航機「撃墜」事件』(角川書店)を書いたがこれが最後の書き下ろし作品となった。推理界の大御所の<推理>は撃墜説だったが、航空専門家からは無視され続けている。
*752=天平17年 「奈良の大仏」東大寺蘆舎那仏(るしゃなぶつ)の開眼供養が行われた。
聖武天皇の勅願で造営を始めたが数回の失敗を重ね、鋳造場所も近江・紫香楽(しがらき)から奈良・平城京に移してようやく完成のめどが立った。聖武天皇の体調がすぐれず、大仏殿はすでに完成していたため急ぎたい事情もあった。仏教伝来から200年、釈尊の誕生日=仏生日の翌日に行われた開眼供養は、仏法が伝わって以来の盛儀で、位を譲った聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙女帝の臨席のもと文武百官がこれに連なり、インドからの高僧を導師に1万人の僧侶が読経し群衆も都を埋めた。
ちなみに「完成のめど」と書いたのは大仏に鍍金するための金が奇跡的に陸奥で発見されたから。この5年後にようやくすべての造営作業が終了した。
*1890=明治23年 琵琶と京都を結ぶ琵琶湖疏水が難工事のすえに完成し開通式が行われた。
福島・猪苗代湖からの安積疏水、栃木・那須疏水とともに「日本三大疏水」と呼ばれるが地形などから当時のお雇い外国人技師たちが<NO>と言ったのを工部大学校の卒業論文に「琵琶湖疏水工事計画」を書いた21歳の技師・田辺朔郎を京都府知事の槇村正直が抜擢した5年がかりの工事が実った。
琵琶湖の水を京都に運びしかも舟運にも役立てる事業で、のべ400万人が工事に従事した。京都側には船をスロープで運び上げるインクラインや水力発電所が作られ京都の近代化に大きく役立った。
*1976=昭和51年 「白樺」派の作家・武者小路実篤がこの日の早暁、91歳で死去した。
生涯、人道主義者として<文学と人生>を追求。実践道場として宮崎県に「美しき村」や埼玉県に「東の新しき村」を建設。日本芸術院会員、文化勲章を受章した。代表作に『お目出たき人』、『愛と死』、『友情』などの小説と戯曲『人間万歳』など。
「この道より我を生かす道なしこの道を行く」なんて色紙がなつかしいですな。