“4月10日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1959=昭和34年 明仁皇太子(現・天皇)と民間人正田美智子さん(皇后)の結婚式が行われた。
「世紀のご成婚」といわれたご成婚パレードが通る皇居から東宮仮御所までの約8キロの沿道には日の丸の小旗を持った53万人が詰めかけた。パレードは全国にテレビ中継されたが、受像機そのものがまだ少なかったので街頭のテレビはどこにも人垣ができた。テレビのある家にはふだんは付き合いもない<遠い親戚>や近所の人たちがやってきて朝からたいへんな騒ぎ。中継を見るためにやりくり算段してのテレビ購入者が一気に増えたことで売り切れになる電器店が続出、直前1週間のNHKの受信契約が200万台を突破した。
交際のきっかけが軽井沢でのテニスだったことからテニス愛好者が急増。白地のVネックセーター、ヘアバンド、カメオブローチからはじまってストール、長手袋、などを白で統一する「ミッチースタイル」が大流行した。いまはカチューシャ全盛だが当時はヘアバンドで、これを「ミッチーバンド」と呼んだ。
披露宴は13日から3日間にわたり計5回、国内外の約3,000人が招待され、ご成婚記念切手が発行されたのが「10円」だった。記者会見で皇太子の印象を聞かれた妃殿下の「とてもご清潔でご誠実なご立派なかたで心から信頼申し上げております」から「ご清潔でご誠実」もこの年の流行語になった。
*1848年 イギリスでチャーチスト運動の「最後の突撃」が行われた。
フランスの「二月革命」を受けて普通選挙権、秘密投票、公平な選挙区など6項目を掲げた労働者協会は2万人を動員してケンシントン広場からウフェストミンスターへとデモ行進した。事前に「最後の突撃」とされていたこともあって政府は戒厳令を敷き、軍隊まで出動して厳戒態勢で臨んだがデモ隊は政府に請願書を出しただけで穏やかに解散した。
つまり<突撃>とはならなかったわけだが、歴史の上では「最後の突撃」の名が残る。
*1912=明治45年 ブドウ酒醸造の先覚者・神谷伝兵衛が東京・浅草に「神谷バー」を開店した。
名物は「電気ブラン」。電気は新時代を表し、ブランはブランデーの略で神谷の命名である。店も「電気ブラン」もいまも健在、地下鉄銀座線浅草駅を上がったところにある。
*1945=昭和21年 敗戦後初の総選挙となる第22回衆議院議員総選挙が実施された。
この総選挙は大日本帝国憲法下=帝国議会での最後の総選挙で、男女普通選挙制度を採用しての初の選挙となった。とくに<婦人参政権>が実施された初めての選挙だけに有権者の関心は高く<晴れ着姿>で投票所に行く女性の姿も多かった。
選挙は全国53選挙区の大選挙区制で行われ、立候補者は258の政党の2,770人。4~10人の選挙区が2人、11人以上が3人の「連記制」がとられた。選挙の結果は日本自由党140、日本進歩党94、日本社会党92、日本協同党14、日本共産党5、諸派8、無所属81で好対照だったのは公職追放令で議員立候補ができなかった与党・進歩党だった。苦心して2世などの<身代わり候補>を出馬させたが惨敗した。合法化された日本共産党ははじめての議員を国会に送ることとなった。
女性候補者は79人で「連記投票の最後にわたしの名前を!」と訴えて39人が当選した。この中には夫の加藤勘十とともに当選した加藤シズエ、山口シズエの日本社会党組がいるが加藤の職業が著述業だったのに対し、山口は「山口自転車炊事部長」として生活を預かる主婦であることをアピールした。
諸派ではのちに妻子ある国会議員との<不倫の恋>で有名になる27歳の園田天光光が、旧姓の松田天光光=餓死防衛同盟、無職として当選している。
*1762=宝暦12年 平賀源内が江戸で「薬品会」を開いた。
会場となった湯島の料亭には「草木鳥獣魚介昆虫玉石和漢蛮種」千三百余種が所狭しと並べられ見物人でごった返した。いわば物産・小博覧会で源内が讃岐から江戸に出てきて毎年行ってきた薬品会の5年目の集大成だった。本業は本草学者だったからそのコレクションを世間にアピールしたわけだが翌年にはこのうちの360種を選んで出版している。
他にも地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、発明家など多くの肩書を持つ<奇人>だけに相当な珍品もあったろうが源内の業績のひとつとなった静電気発生器「エレキテル」の修理復元は1776=安永5年だからまだ先のことだ。