“4月13日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1888=明治21年 日本初の本格的コーヒー専門店「可否茶館」が東京に開店した。
下谷区西黒門町というからいまの台東区上野1丁目あたり。
<台湾開発の始祖>といわれた鄭成功(1624-1662)の子孫で、岡山師範の教頭から大蔵省にも勤めた鄭永慶(てい・えいけい)が開いた。
火事で焼けた自宅を再建した新築2階建洋館で、コーヒーを飲ませるだけでなく、トランプや将棋ができ外国図書、新聞が読める読書室や50~60人収容の宴会場もあった。庭ではクリケットまでできるなど至れり尽くせり。コーヒー1杯1銭5厘、牛乳入り2銭、菓子付き3銭。米・エール大学にも留学したことのある鄭は、喫茶店というよりミニ社交場や文化サロンを経営したかったようだ。
客は少数の学生ともの好きな文士くらいで初めから大赤字。4年目に倒産したというから、よくがんばったというか。
*1293=正応6年 鎌倉幕府の象徴だった建長寺が倒壊して炎上した「鎌倉大地震」が起きた。
早朝に鎌倉を襲った大地震は建長寺だけでなく社寺や人家などもことごとく倒れた。幕府編纂の『吾妻鏡』には身分の高い者も低い者も死者は数え切れず、由比ケ浜から鶴岡八幡宮の鳥居までの間に百体以上の死体が転がっていたという記述が残る。余震被害も大きく、関東だけで犠牲者は2万3千人に上った。
要塞都市の政権中枢・鎌倉は、周囲を山に囲まれているだけに防衛能力は高いが大きな災害がなかで発生すると逃げ場がないという弱点があった。震災による混乱に乗じて執権・北条貞時は、幕府内で専横をきわめていた平頼綱を討って実権を掌握した。政権自体も大きく<揺れた>のである。
1612=慶長17年 宮本武蔵と佐々木小次郎の「巌流島の決闘」が行われた。
関門海峡の下関側、彦島沖400mに浮かぶ船島の別名だから、正式な住所は下関市大字彦島字船島。市内の唐戸桟橋から遊覧船が通う。
決闘を主宰したのは細川家で、武蔵は一撃で<燕返し>の使い手の小次郎を倒したとされる。後世の小説や映画、テレビドラマでは決闘シーンはさまざまに書かれる。
・刀は持たず、約束の時間に遅れて櫓を削っただけの木刀を持ってきた。
・抜いた刀鞘を捨てた小次郎に「小次郎、敗れたり!」と言った。
・太陽光線が逆光になるよう計算した。
・木刀で打たれて気絶した小次郎は隠れていた武蔵の仲間に殺された。
どこまでが真実でどこからがフィクションか。所詮は大衆小説や映画、テレビドラマの世界であると思っても気にかかる。
武蔵の生国は播磨=兵庫県とも、美作=岡山県ともいわれるが吉川英治『宮本武蔵』は美作説をとっている。二刀を用いる「ニ天流兵法の祖」で生涯60余度戦っていずれも勝利したのは、強かったからだろう。兵法書『五輪書』には巌流島の決闘の記録はないが、吉川の『宮本武蔵』は決闘の詳細や、京都の兵法家・吉岡一門との戦いを活写している。入手した武蔵の真筆「有馬直順宛書状」を自身の宝物としていたのが吉川英治記念館に残る。
武蔵は水墨画などにも才能を示した。「鵜図」や「紅梅鳩図」は重要文化財に指定されているなど芸術家でもあった。57歳の時に客分として藩主細川忠利に招かれ、晩年の5年間を熊本で過ごしたが忠利が逗留していた山鹿温泉に招かれたほか禁制の鷹狩を許されるなど厚遇された。地・水・火・風・空の5巻に分かれた『五輪書』はこの時代に書かれた。
62歳で没したが厚遇を感謝して藩主が参勤交代で通過する阿蘇への大津街道沿いにある「武蔵塚」に道中の無事を願って<甲冑立姿>で葬られたと伝わる。
*1808=文化5年 幕府の命を受けた松田伝十郎と間宮林蔵が宗谷を出発して樺太に向かった。
樺太は現在のサハリンでそこが島であることを確認した松田が帰国したあと、間宮は鎖国の禁を破るのは覚悟の上で海峡を渡り黒竜江の下流部を調査した。この成果を受けてシーボルトの日本地図では最狭部を「マミアノセト=間宮の瀬戸」海峡自体は「タタール海峡」と記載されている。
<密偵説>もある間宮だが、当時の探検そのものが外国に対しては隠密行動をとらなければならなかった。常に命懸けの<幕府の>隠密だったから変装術だけでなくアイヌ語やタタール語など現地語にも達者な間宮はそのなかでも才能も体力も群を抜いた存在だった。