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“4月19日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1775年  のちのイギリスとその植民地のアメリカ東部州との独立戦争が始まった。

当時、イギリスはグレートブリテン王国といった。植民地だったアメリカ東部の13州は参戦したフランス、スペイン、オランダなども巻き込みながら戦闘を繰り広げ、83年9月のパリ講和条約締結まで戦争は実に8年半も続くことになる。

戦端は1発の銃弾からだった。ボストン駐留のイギリス軍北アメリカ総司令官のトマス・ゲイジ中将は、40キロほど離れたマサチューセッツ州コンコードに植民地の民兵が集めたという弾薬があるという情報を得た。押収するためにこの日、出動した700名の部隊は途中、レキシントンという村で民兵に向けて銃を発砲、民兵が撃たれて死亡した。

「一発の銃弾が世界を変えた」といわれるこの<レキシントン・コンコードの戦い>から長い独立戦争が始まった。当初は13州の民兵らで組織するアメリカ大陸軍対イギリス軍という構図だったが、大陸軍が勝利した<サラトガの戦い>のあとフランスが参戦、そこにスペイン、オランダが加わり、各地で戦争が拡大、<ヨークタウンの戦い>でイギリス軍が降伏して大勢が決まった。

それにしてもアメリカという国は歴史上の人物や歴史地名などを巡洋艦や空母などに付けるのが好きな国とみえる。独立戦争がらみでもレキシントン、サラトガ、ヨークタウンが航空母艦に付けられている。そんなことより忘れずに書いておかなければいけないのはこの戦争の原因である。イギリス本国の財政危機に伴い植民地への印紙税創設などに始まる諸増税に端を発したものだった。

最初は圧倒的な兵力を誇ったイギリスだが、なにせ援軍や物資は大西洋を越えてだから次第に劣勢になっていく。そこに権益を狙う各国が参戦してやがて押しまくられていったのは<兵站線が長すぎた>他の戦争でもよくあるパターンと同じといえなくもない。

*1951=昭和26年  第51回ボストンマラソンで19歳の田中茂樹が日本人として初優勝した。

敗戦国・日本が伝統ある大会に初参加したことで知られる。選手4人のなかで広島出身の田中は、当時のアメリカ人一般が<原爆投下で全滅した広島からやってきた>という認識だったから現地の新聞に「アトムボーイ」と書き立てられて注目された。田中は広島県北部、中国山地の山間部の敷信村(現・庄原市)出身。学校まで片道4キロの砂利道を走って登校した脚力で「全国高校20キロマラソン」に優勝するなどして最年少でボストンマラソンの代表に選ばれた。

大会で履いていたのは「マラソン足袋」といわれた地下足袋型マラソンシューズだった。報道もだが、広島の惨状をもたらした<敵国>で「原爆のせいで負けたと思われたくない」と奮起したという。記録は2時間27分45秒の当時の歴代3位の好成績で見事優勝した。ほかの日本人選手も全員が入賞するなど大健闘し大いに気を吐いた。

*1868=慶応4年  わが国初の国家紙幣となる「太政官札」が発行された。「金札」とも呼ばれる。

戊辰戦争に多額の戦費を使い、殖産興業の資金不足を補うため太政官布告で「通用向こう13カ年限り」の官札として維新政府が発行した。官軍の通過地のみで通用した不換紙幣ともいわれ価値は日を追って下落した。実際に発行されたのは4,800万両とされるが、新国民が紙幣に不慣れなことなどもあって租税納付などでの使用を命じたりしたものの偽札が多く出たことで散々となった。1871=明治4年の新貨条例で通貨単位を「両」から「圓=円」に切り替えたこともあって通用期間は実質5年間ほどで終わったとされる。大半が新紙幣と交換されたが散逸したものもあった。

不人気だった金札だが、いま現物があったら<鑑定団>などでは結構な高値になるはず。

*1910年  ドイツ国立血清研究所長パウル・エールリヒが「特効薬606号」を学会に報告した。

何に効き目があるのかというとのちに「サルバル酸」と命名される梅毒の特効薬である。エールリヒらが606番目の化合物にすばらしい効果があることを突き止めたことで当初は「No606」と呼ばれていた。この発見に貢献したのが研究所で実験を担当していた日本人医学者・秦佐八郎でこの発見がのちのペニシリンや抗生物質の発見を促したとされる。

エールリヒはこの発見の2年前にノーベル生理・医学賞を受賞しているが赤痢菌の発見者として知られる志賀潔も門下生として終生敬愛し続けたことが知られている。志賀はエールリヒの<道楽>として探偵小説とタバコを挙げ、25本入りのハバナ産の極上葉巻を毎日空にするほどの喫煙家だったとエッセイに書いている。

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