“4月21日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1854=嘉永7年 伊豆・韮山に溶鉱炉のひとつである「反射炉」が完成した。
幕府の命を受けた伊豆韮山代官の江川太郎左衛門が洋式砲術の研究家、高島秋帆の弟子となり大型洋式砲の製造技術を学ぶなど苦心の末、築造した。
反射炉は熱を発生させる燃焼室と精錬を行う炉床が別になった構造で、燃焼室で発生した熱線や燃焼ガスを天井や壁で<反射>させて炉床に集めるところから呼ばれる。長く鎖国が続いた日本は、新技術の導入が遅れたことで大砲も鉄から青銅へと“逆進化”していたが強度に難点があり破裂などの事故も絶えなかった。
こうした近代技術の導入はいずれがあと先という面はあるが、各藩などが指導を仰いだのが当時、唯一海外に開けた都市・長崎生まれでオランダ語や洋式砲術を学んだ高島だった。結果、技術水準には差があったものの伊豆代官だけでなく佐賀藩、薩摩藩、水戸藩、萩藩、鳥取藩などでも同じような反射炉の建設が進み、主に鉄製の大型野砲の砲身がつくられた。
江川が江戸の自邸に小型反射炉の実験炉を試作してから5年後に伊豆・韮山の反射炉を完成させるまで師の高島は見守った。完成した野砲は幕府に献上され、江戸城に据えられて戊辰戦争では実戦で使われた。高島が江川と「高島流砲術」を幕府の役人らに実演したのが当時の徳丸ヶ原で、現在は高島平(東京都板橋区)としてその名が残る。
江川は日本で初めて西洋式軍隊を組織したがこのとき「気を付け」や「右向け右」「回れ右」を英語から翻訳して導入した。林業にも精通し高尾山に初の植林を行ったのが現在は樹齢150年以上になっている「江川杉」だ。ペリーが献上した蒸気機関車を13代将軍家定の前で初めて運転したことでも知られる。
その江戸屋敷は福沢諭吉に払い下げられ、慶応義塾三田キャンパスとなっている。
*1864年 ドイツの経済社会学者、マックス・ヴェーバーがエルフルトの町に生まれた。
ドイツ語読みならヴェーバー、英語読みならウェーバーだが私の学生時代は後者だった。講演『職業としての政治』のなかでの有名な一節は「政治家にとって、とくに大切な3つの性質、それは情熱と責任感と見識です」。その通りではあるけれど、昨今の、いやずっと前からこの国の政治家たるや・・・。
*1954=昭和29年 犬養健法相が造船疑獄で自由党幹事長・佐藤栄作への指揮権を発動した。
わが国では唯一の「指揮権発動」で法相は「重要法案の通過の見通しを得るまで逮捕を延期するよう検事総長に指示した」という談話を発表した。検察の捜査は行き詰まり、逮捕されていた造船工業会の幹部らもほとんどが<事なき>を得た。この中には造船工業会の会長だった丹羽周夫や副会長の土光敏夫ら70人以上がいた。<佐藤の次>も噂されていたため政権崩壊の危機を恐れた吉田内閣の窮余の策で、事件は闇に葬られてしまう。
翌日、犬養法相は非難の声を背に辞職、2度と政界に戻ることはできなかったが逮捕を免れた佐藤はその後、長期政権を築きノーベル平和賞を受賞した。この人たちも<運命の人>というべきか。
*1583=天正11年 「賎ケ岳の戦い」で本能寺の変後の羽柴秀吉と柴田勝家の抗争が火を噴く。
美濃・大垣城に陣を敷いていた秀吉は、前日の正午過ぎ「近江の戦局に危機あり」の報を聞くと木之本まで50㌔の道をわずか5時間ほどで引き返した。夜半には本隊1万5,000人も到着、琵琶湖の北岸、賎ケ岳を挟んで柴田軍と対峙した。
この日早朝から攻めに攻めた秀吉軍に柴田軍は敗走を重ね総崩れに。勝家は居城の越前北庄城=現・福井市へ逃げたが秀吉軍に城を包囲されたため城に火をかけ、妻お市の方とともに自刃して果てた。
死の2日前、お市の
さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな
に勝家は
夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ ほととぎす
と詠み返した。一見、季節外れとも思えるだろうがほととぎすは「不如帰」と書くことで死出にあたる見事な辞世と評されている。
この戦いで戦功をたてた加藤清正・嘉明、福島正則、片桐且元、脇坂安治、平野長泰、糟谷武則の7人は「賎ケ岳七本槍」と呼ばれたが、徳川政権になって脇坂氏以外は御家取りつぶしなどで<散々な運命>に翻弄されていく。