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“4月22日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1500年  ブラジルが “発見”され探検家カブラルが上陸地点にポルトガルの国旗を立てた。

インドへの航路を開拓したヴァスコ・ダ・ガマの第1回インド遠征隊の帰国直後に、さらに大きな成果を得るためポルトガル国王マヌエル1世は、後継者として当時31歳のカブラルに白羽の矢を立てた。ガマの遠征隊がたった4隻だけだったのに比べ13隻、1,200人に膨れ上がった遠征隊はその期待の大きさでもあった。貿易関係の継続もあったがキリスト教の布教のために多くの聖職者も乗り込んでいた。

港を埋めた盛大な見送りを受けてリスボンを出港したのは3月8日、進路は南のアフリカ大陸沿いでなく西寄りに取られた。言い換えれば<大西洋を斜めに横切った>ことになる。水平線に大きな陸地が見えたときにカブラルは島ではないかと考えた。南アメリカ全体を大西洋側=右に向いた「顔」と考えればちょうど「口」のあたり。上陸したのはブラジル、バイーア州の州都サルバドルのやや南、ポルト・セグーロとされる。

上陸探査後、カブラルは部下のレモスに1隻の船を与え、できるだけ海岸を北へ探索しながら帰国して成果を国王に報告するように命じた。カブラルの発見は「嵐で漂流して偶然に」という説もあるが、こうした手回しの良さは最初から国王に指示されていたと思われる。レモスは翌月リスボンに戻り、国王に報告したのでポルトガルのブラジル発見はたちまちヨーロッパ中に広まったのだから。

カブラルは当初、ここをヴェラ・クルス島(=真の十字架島)と名付けたが、島ではないとわかったのでヴェラ・クルスとなり、赤色染料ブラジリンが採れる「ブラの木」がさかんにヨーロッパへ輸出されたので、木の名からブラジルとなった、というのが国名のウソみたいだけどルーツ。他の南米諸国がほとんどスペイン語を使うなかでいまもポルトガル語なのはカブラルの発見に由来するからでいまの正式国名はブラジル連邦共和国である。

*1950=昭和25年  第1回ミス日本コンテストで山本富士子が初代のミス日本に選ばれた。

読売新聞、中部日本新聞、西日本新聞の3社の主催に全国から700人が応募した。山本は大阪市生まれ、高校時代に京都に転居して京都府立第一高女(現・府立鴨沂高校)を卒業したばかりの19歳だった。最終選考は12大都市(札幌、仙台、東京、横浜、静岡、新潟、名古屋、京都、大阪、神戸、広島、福岡)それぞれのミス12名で争われ、<ミス京都>の山本が栄冠に輝いた。

審査員は日本画家の伊東深水、作家の久米正雄、吉川英治ら9人だったが、山本の美貌は前評判以上だったので審査は極めて短時間で終了した。そのあとの時間調整に困ったという裏話が伝わる。山本富士子は本名で、高校卒業時に日本銀行京都支店の就職面接に行ったが落ちてしまった。理由は「こんな美人が入行したら男子行員全員が落ち着かなるのではと心配されたから」と。長く伏せられていたが当時の採用担当がもう時効だろうと明らかにした。

京都市役所のすぐ南側のビル壁面にはいまも「女優 山本富士子邸跡」という石碑が埋め込まれている。日銀の支店からわずか数百メートル、このあたりにあの「お富士さん」が住んでいたという<かくれ観光スポット>である。

*1933=昭和8年  文部省が京都帝国大学の瀧川幸辰教授の休職を要求する「瀧川事件」が起きた。

理由に挙げたのが瀧川教授の赤化的傾向とされた。しかしいちばん問題にされたのは法学部教授としての『刑法読本』『刑法講義』における内乱罪の位置づけだったろう。「内乱罪は破廉恥罪ではない」と説いたのを「姦通罪で妻だけが罰せられるのは誤り」とした解釈と<セット>で内務省が著書を発禁処分にしていた。

文部省は京都帝国大学の小西重直総長を呼びつけての休職要求となったが法学部教授会は処分反対の立場をとり、佐々木惣一、宮本英雄、末川博らをはじめとする39人の教官全員が辞表を提出、学生の退学届も1300人以上に達した。

これより先、東大の助教授が共産党の再建資金カンパに応じたとして辞職させられた「共産党シンパ事件」などがあったが先輩教授の自重論で反対運動は学生だけで終わった。京大では<学校ぐるみ>の運動に発展したところに学校風土の差があった。結局は文部省が佐々木、宮本、末川ら6教授の辞表だけを受理するという分断策でけりをつけたが京大を追われた滝川らは立命館大学に移籍した。これには西園寺公望の働きかけがあった。

文部省が動かざるを得なくなった背景には当時の斎藤内閣の延命策もあったとされるが政治の利害が学問の自由や大学の自治を蹂躙したのは、日本が<暗い道>に突き進んでいく象徴のひとつだったか。

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