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“4月23日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1862=文久2年  京都・伏見の船宿で藩内過激派が粛清されるという「寺田屋事件」が起きた。

この日深夜、寺田屋で藩主の父・島津久光の命を受けた奈良原繁ら鎮撫使と有馬新七ら尊攘激派とが斬り合い多くの死傷者が出た。別名「寺田屋騒動」「寺田屋の変」という。奈良原らは藩の方針を聞き入れようとしない激派を<鎮撫>するように命令されていた。「心情はわかるがここは辛抱してくれ」などと説得しようとしたが説得に応じなければ切り捨ててよいといわれていた。それは藩の意向に従わない不心得者として懲罰せよという<粛清命令>でもあったから当然ながら溝は埋まらないままだった。

結果、激派はその場で有馬ら6名が即死。重傷の2名は翌日、藩命に背いたとして切腹を命じられ、自刃した1名とで計9名が死んだ。双方の刃が相撃って暗闇に火花を散らし、その光は雷光のようであったというなか、刀が折れた有馬は一人を壁に押し付けたまま「おいごと刺せ」「おいごと刺せ」と叫び続けた。それは相手を押さえつけている自分もろとも刺し通せと命じた凄絶な死だった。

寺田屋事件で命を落とした激派9名は「薩摩九烈士」として伏見区鷹匠町の大黒寺に葬られている。斬り合った双方とも幼少時から藩の「精忠組」で剣の修行に励んだ仲間でもあり西郷隆盛とも旧知だったから墓碑の字は西郷が泣きながら筆をとった。藩はこの同志討ちを恥じるとともに迷惑をかけた寺田屋に対し、破損した家財一式を即日修理させ、多額の迷惑料を渡して一切の他言を禁じた。

*1965=昭和40年  ヒマラヤの未踏峰ゴジュンバ・カン(7,889m)に明大登山隊が初登頂した。

登頂したのはフランス・シャモニのスキー場でアルバイトをしていた山岳部OBの植村直己で、途中参加として遠征隊に加わった。当初予定していたアタック隊員が体調不良などで動けず、最後の登頂メンバーとしてシェルパのテンジンとの2人が選ばれた。

最終キャンプからトップでルート工作を続けたので疲労困憊ではあったが、テンジンが頂上を踏む<最後の一歩>を植村に譲ってくれたと『青春を山に賭けて』(毎日新聞社、1971)に書いている。

登頂成功の第一報はいくつもの峠を越えてようやく15日後にカトマンズに<足報>された。他に通信手段がなかったからとはいえ、この時間差がヒマラヤの峻険さを何よりも強く物語ってはいる。遠征隊メンバーからは一緒に帰国しようと強く誘われたが、準備に奔走してきた皆さんのおかげでたまたま登頂できただけだからと固辞してフランスに戻った。

植村はその後、世界初の「5大陸最高峰登頂者」となり冒険家としての道を歩むが、この遠征が海外での初登頂となった。

*1949=昭和24年  GHQが日本政府に1ドル=360円とする「単一為替レート」を指示した。

占領下、経済立て直しはなかなか進まず、国際経済に対して大きく立ち遅れてしまった。漆器は対ドル=600円、ビタミン油は150円というように商品別の為替レートが実施されていたが、国内経済にようやく<薄日>が見えてきたことで単一レート導入に踏み切ることになった。

2日後の25日からの実施となったが、当時誰が昨今の円高を予想しただろう。

*1891年  ロシアの作曲家でピアニストのセルゲイ・プロコフィエフがウクライナで生まれた。

早熟の天才として知られる。5歳で作曲を開始、9歳で最初のオペラ「巨人」を作曲、13歳でサンクトペテルブルク音楽院に入学した。トランクは自身の作曲集でふくらんでいた。

ロシア革命に揺れる祖国を離れアメリカへ亡命する途中、1918=大正7年に日本に立ち寄った。東京と横浜で開いたピアノリサイタルはヨーロッパの大作曲家の初の訪問として特記される。このとき27歳だった。

プロコフィエフの人生でアメリカやヨーロッパでの生活は多くの刺激を与えた。何度かの演奏旅行のあと1930年代からロシアへ帰国した。第二次世界大戦中は他の芸術家たちとグルジアなどへ戦火から避難する苦労も味わった。多くの交響曲のほか「ロメオとジュリエット」、「シンデレラ」などのバレエ音楽や「戦争と平和」などの歌劇に実を結ぶのは幅広い音楽遍歴の末の<果実>だったのではなかろうか。

偶然の一致だろうが1953年3月7日、スターリンの死の3時間前に62歳で死去した。

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