“4月25日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1783年 フランスのモンゴルフィエ兄弟が無人の熱気球の実験に成功した。
『広辞苑』には気球=「熱した空気や水素・ヘリウムなど空気より軽い気体をみたして空中に浮遊または上昇させる球状のもの」とある。兄弟は子供のころに紙の風船に煙を入れて浮き上がらせて遊んだのをヒントに亜麻布製の熱気球を300m上空まで上げることに成功した。つまり「熱した空気」を使ったわけである。6月5日には公開実験を行ったことで一般に<認知>され、これが「熱気球の日」の起源となった。ところが兄弟は「空気を熱したら軽くなる」のではなく「煙の中に気球を上昇させる成分が含まれている」のではないかと考えていたそうだ。
8月27日には同じフランスの発明家で物理学者のジャック・シャルルが世界で初めて水素を詰めたガス気球の無人飛行実験に成功した。こちらは「空気より軽い気体」をみたした。エッフェル塔が建っているシャン・ド・マルス公園から45分後、21キロ離れたゴネス村に着陸したものの空から “落ちてきた”不審な物体に驚いた村人らは気球を熊手やナイフで引き裂いてしまった。
9月19日にはフランス国王ルイ16世の前で熱気球に吊り下げた籠に羊、アヒル、ニワトリを入れて飛ばすことに見事成功、勲章を授与された。さらに11月21日にはさらに大きい熱気球にダルランド侯爵ら2人を乗せて100mまで上昇、パリ市内を25分間、9キロほど飛行。気球による人類初の飛行となった。
では熱気球の大幅リードだったかというと10日後の12月1日、シャルルは協力者と水素気球の下にバスケットを取り付けて高度550mで2時間5分飛んでシャルリエールという村に着陸した。見物人は約40万人でスポンサーの数百人が特別席で出発を見学した。この中にはアメリカからの外交団の一員だったベンジャミン・フランクリンや特別招待のモンゴルフィエ兄弟や<気球ファン>のルイ・フィリップ2世もいた。
シャルルが<熱気球組>を招待したのは「同じ空へのロマンを持つ仲間じゃないか」という度量の広さがあったからか。発明家らしく気球には気圧計や温度計を乗せていたので空中での気象観測の始まりとなったがこれは<熱>気球ではできないだろうと。まさに国中が気球に熱中した時代、翌年7月15日にはシャルルたちがラグビーボール型の大型気球を製造した。これにフィリップ2世を乗せてパリ郊外から飛び立って45分間飛行したが何と4,500mまで上昇した。ところが高く上がり過ぎて気球が破裂しそうになり、フィリップ2世が気嚢を切り裂いてガスを放出して下降、からくも墜落を免れるというきわどい場面もあった。高空では気圧がさがって気球が膨張するという今では常識になっていることを知らなかったことがわかる。
このフィリップ2世は別名オルレアン公といいあの王妃マリー・アントワネットの<敵>だった。フランス革命では一時、革命派に与したとされたが、王妃が断頭台に送られたわずか20日後に共和制転覆を図ったとして同じ運命をたどった。
オルレアン公、気球による初めての事故死か、断頭台の死かと<死に方>を比べるのも不謹慎ではあるけれどせっかく命をとりとめたのに。
*1868=慶応4年 新撰組の局長だった近藤勇が板橋刑場で斬首された。33歳だった。
鳥羽・伏見の戦いに参加した新撰組は敗走し幕府の軍艦で江戸に戻った。幕府の命で甲陽鎮撫隊として甲州勝沼の戦いに向かうが新政府軍に再び敗れた。近藤は「大久保剛」と改名していたが見破られた末の刑死だった。遺体は家族に引き取られて三鷹市の龍源寺に埋葬された。同志だった土方歳蔵はその一部をもらい受けて福島県会津若松市の天寧寺に葬ったとされる。
斬首された首は京都に運ばれ三条河原に晒されたが、夜陰にまぎれ同志に<奪還>されて行方不明になった。愛知県岡崎市の宝蔵寺、山形県米沢市の高国寺に首塚があるが、いずれにせよ首と胴体は一緒にはならなかったわけだ。天然理心流の使い手で愛刀は「虎徹」。<今宵の虎徹は血に飢えておるわ>は講談の決め台詞である。
*1670=寛文10年 わが国の土木史上画期的な工事で貫通まで4年を要した「箱根用水」が完成。
相模国(=神奈川県)芦ノ湖の水を隧道で駿河国(=静岡県)に流すことで水不足に悩む農民を助け、新田開発を進めるために計画された。いったんは許可を与えた江戸幕府だったが商人や農民らの手で難工事が完成すればその威光が地に落ちるとする意見に動かされ、そこに相模、駿河両国の思惑などもあって陰険な妨害が繰り広げられたが工事が始まり人力で全長1,280mを掘り抜いた。
戦後、民主主義の実践モデルとして前進座と新星映画が共同製作の1952=昭和27年の山本薩夫監督作品『箱根風雲録』は河原崎長十郎と山田五十鈴が共演しましたな。