“4月26日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1792年 のちにフランス国歌となる『ラ・マルセイエーズ』がこの日の早暁、完成した。
フランス東部、ライン川の対岸にはオーストリア帝国軍が迫っていた。しかも川を越えていまにも進軍してくるという情勢にストラスブール市長のディートリッヒはフランス軍ライン方面軍の工兵将校の大尉として駐在していたルージェのもとを訪れた。士官学校当時から音楽が得意だったという噂を聞き「軍を鼓舞する歌を作って欲しい」と頼みに来たのだ。
ルージェは本名をクロード・ジョゼフ・ルージェ・ド・リールというが長いので大尉としておく。この頼みを二つ返事で引き受けた大尉の耳にはザクザクと行進するライン軍の兵士たちの靴音のリズムと市民たちの興奮した歓声が残っていた。
進め 祖国の子らよ 栄光の時はきた
我らに対し 暴君の 血塗られた軍旗は 掲げられた
血塗られた軍旗は 掲げられた
聞こえるか 戦場で 獰猛な兵士の怒号が
奴らは来る 汝らのもとに
喉を掻きるため 汝らの子の
ヴァイオリンで旋律を付けるとたった一晩で最初の題名『ライン軍のための軍歌』が完成した。大尉はこれをライン方面軍司令官にまず献呈、司令官や市長ら居合わせた人たちの前で披露すると大絶賛を浴びた。感動した市長はすぐさま歌詞を大量に印刷して兵士らだけでなく市民にも配った。
歌詞を訳すと敵への戦意丸出しでかなり過激な歌であることが分かる。兵士や大人はともかく子供たちに歌わせるにはどうかという印象だから大尉としては「市長との約束はとりあえず果たしましたからね」くらいの気持ちだったろうが遠く離れた地中海の港町・マルセイユでこの歌が間もなく大流行する。伝達手段がなかった当時、誰かが歌詞を運んだのだろう。6月30日のマルセイユ義勇軍のパリ入城はこの歌に合わせて行進が行われ、迎えた人々も歓喜にふるえながら合唱した。題名を聞かれて兵士たちは「ラ・マルセイエーズという俺たちの歌さ」と答えた。国歌になったのは3年後の1795年7月、題名もそのまま『ラ・マルセイエーズ』になった。
ナポレオン戦争では<侵略される側>だったシューマンやチャイコフスキーは「侵略者フランスの象徴」と強烈に批判、自身の作品にその一部を引用することで抗議した。近年ではビートルズが邦題『愛こそはすべて』のイントロに使ったがこちらは<愛のイメージ>だそうで。フランス国内でも何度も改変論議はあるものの一方では「市民革命の意義ある名歌」として歌い継がれているという複雑な歴史背景があるわけです。
*1924=大正13年 日本初のボクシング試合「第1回日本軽体量級拳闘選手権試合」が行われた。
会場になったのは東京・日比谷音楽堂というのは意外に思えるが関東大震災のわずか8か月後だったから建物被害が少なかったこともあるだろう。会場はもちろん超満員だった。最終試合で当時は明大生の臼田金太郎が日本拳闘倶楽部の川上清を6回TKOで下し、初代のライト級日本チャンピオンに輝いた。
臼田はその後、1928年のアムステルダムオリンピックにウェルター級の日本代表として出場し銅メダルを獲得した。プロに転向してアメリカ遠征などでも活躍したが武器は左から繰り出す強力なストレート。プロでの戦績は46戦31勝だった。
*1959=昭和34年 東京読売巨人軍の新人、王貞治が初安打となるホームラン第1号を放った。
投手として入団した王はその後、野手に転向、オープン戦では5本の本塁打を打ったもののシーズンに入るとまったくのスランプに落ち込み26打席無安打が続いていた。相手応援席からは<王は王でも三振王>などとヤジが飛ぶなど散々だった。
対国鉄スワローズ戦の7回表に得点0-0、ランナー1塁で王に打席が回ってきた。水原監督はここで不振の王にかえて代打を送ることも考えたが、チームが4連勝中だったのでそのままにしたという裏話も残る。
相手ピッチャーは村田元一の内角カーブをすくいあげた一打は、ライトスタンド最前列に突き刺さったというより<落ちた>だったか。27打目の初安打は初ホームランとなった。
生涯ホームラン868本の世界記録はいまだ破られていないし国民栄誉賞など多くの賞に輝く<世界の王>にも不振の日々があったという一席、おあとがよろしいようで。