“4月28日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1729=享保14年 ベトナムからはるばる運ばれてきた象が御所で中御門天皇に披露された。
当時ベトナムは交趾(こうち)国といった。前年5月、牡牝の子象2頭を乗せた船は広南(カンナム=ホーチミン)を出港して風待ちしながら航海を続け6月に長崎に入港した。出島の唐人屋敷での飼育中に牝象は死んでしまったが、ひと冬が過ぎ人にもなれたところで3月14日に長崎を出発した。関門海峡を船で渡って山陽道を大阪へ。ここで4日滞在して京都へ着いた。
そもそも象がなぜ日本にやって来たのかというと、8代将軍吉宗が<所望>したから。噂を聞いて献上を申し出たのは商売上手な清の商人・呉子明だった。将軍に取り入り貿易制限などでうまくやれればお安い御用という目算である。享保の改革の断行などで幕府の財政は厳しかったが家康も象を献上された<前例>があったから老中らも渋々受け入れた。
象が京都を通過するのは150年ぶりとあって吉宗自身の発案で天皇にご覧いただくことになった。京都所司代からの「象逗留中の諸注意」には防火対策がこと細かく記されていた。当日は早朝から象は念入りに洗われ全身に油がすり込まれた。顔には白粉で化粧が施され、まるで<仏画の白象>のようだったという。
ここで大問題が起きた。宮中に参内して天皇に拝謁するには<爵位>がなければならないという定めがあった。いくら天皇が楽しみにされているとしても例外はまずいということで急遽「広南従四位白象」に叙せられ、象使いも日本人に交代した。象の爵位は赤穂事件(「忠臣蔵」)の浅野内匠頭の従五位より上だったわけだ。五ツ(午前8時)に宿舎を出発、禁裏御門から清涼殿階下に進んだ。石段には板を敷き、通路の両脇には頑丈な竹矢来が組まれていた。
「広南従四位白象」は天皇の前で前足を折り曲げ大きな頭を垂れて最敬礼し、次に鼻を高々と上げて<ご挨拶>した。これは唯一の芸だったが天皇以下公卿らは感心しきりだった。出された酒を鼻で一口に飲み干し饅頭は<百余個>をぺろりと平らげた。ダイダイは皮をむいて口に入れたのでその器用さにも驚いた。宮中では「象」を御題に歌会も開かれた。
時しあれば他の国なる獣をけふ九重に見るがうれしき
絵にかける形ばかりを見なれしに間近くむかふ世にはめづらし
歩むをも豊かにぞ見るさすがその広き南のけだもの
の3首が御製。冷泉家の当主・為久も
名に聞きし遠きけだ物をうつし絵ならで見るも珍らし
と詠んでいる。
象はさらに東海道を進み5月25日に江戸に到着し、浜御殿(現・浜離宮)で飼われることになった。江戸城で将軍吉宗に謁見したのは27日、9月には吉宗が浜御殿にやってきたが翌年6月11日に2度目の登城をしたあとは浜御殿で<大食漢の厄介者>扱いで最後は中野村のお百姓に引き取られて1742=寛保2年の暮に死んだ。
ところで英語の white elephant には「金のかかる厄介もの」とか「持て余しもの」の意味がある。昔、シャム王が気に入らない臣下に<神聖な象>として白象を下賜することで困らせたことからとされる。
象が江戸にやってきたのが8歳のとき、死んだのが21歳だったから京都での御所参内が生涯で一番の晴舞台だったが、あとはずっと white elephant のままの一生だったか。
*1945年 イタリアの独裁政権を確立し20年以上も首相に君臨したムッソリーニが射殺された。
第二次世界大戦ではエジプトに侵攻したものの頓挫、政権内部のクーデターでトップの座を追われた。ナチス・ドイツの支援を受けて北部に「イタリア社会共和国」を建国したが事実上はドイツの傀儡政権に過ぎず昔日の勢いはなかった。
スイス経由でスペインに脱出する計画は、追い詰められたあげくの最後の手段だったが、コモ湖付近で偽装車両がパルチザン部隊に見つかり同行していた要人らとともに人民裁判の名のもとに<処刑>された。
愛人のクラレッタ・ペタッチがまず射殺されるとムッソリーニは自らの胸元を指さして「心臓を撃て」と叫んだという。同行していた他のメンバーも次々に射殺され、彼らの<生存説>を払拭するため、ミラノに運ばれてロレート広場に晒された。
有名なジョークがある。
「ファシズムはムッソリーニが現像し、それをヒトラーが複写し、ゲッペルスが拡大した」という。そこに登場するヒトラーが30日、ゲッペルスも翌月1日に自殺したから3人ともほぼ同時期に死んだことになる。