“5月1日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1840年 イギリスで世界初の郵便切手「ペニー・ブラック」が発行された。
図柄はヴィクトリア女王の左向きの肖像で1ペニーを黒色で印刷したところから呼ばれた。切手制度の導入は料金の前納制、重さで料金が変わる従量制、全国均一の料金制などと同じく近代的な郵便制度のひとつだった。それまでのスタンプに代わって考案され英国内ならどこでも16gまでの封書が1ペニーの設定だった。当時はまだ目穴のミシン目はなく必要枚数分をハサミで切って使ったが裏には今と同じく糊が付けられていた。
ちなみにわが国で初の切手は1871=明治4年の「竜文切手」で、48、100、200、500文の4種類が発行された。図柄はたとえば「48文」なら向かい合った竜の真ん中に「銭四十八文」と印刷されていた。人物切手のほうは1894=明治27年発行の「明治天皇銀婚記念」の2銭と5銭の2種類で、初めての記念切手だったというのが切手豆知識。
*1906=明治39年 日露戦争の勝利を祝う「戦捷記念博覧会」に日本初の観覧車が登場した。
博覧会は大阪・天王寺公園で開催されていた。<余興の目玉>として輸入された観覧車は英語の whirling wheelを直訳した「旋回車」と呼ばれた。直径15m、蒸気駆動でゴンドラにあたる14の客車を回し、6人ずつ計84人が定員。5分かけて一周した。大阪毎日新聞は「二回転十銭ずつを投じて車中の人となれば転々、あるいは高く天に登らんとし、或いは降って地に潜まんとするの快を欲しいままにするを得るべく新式の遊戯、けだし一試の値なしとせず(=一度試してみる価値があります)」と紹介している。
初めてだったこともあって工事は順調には進まず、1カ月遅れでようやく完成、安全のため6人乗りのところを半分の3人乗りで運転した。すぐそばで楽隊が絶えず演奏して雰囲気を演出し、なかにはお酒を入れた<瓢箪>を持参して景色を見ながら盃を傾ける人もいたという。大人10銭、子供は半額の5銭という料金は、会場での親子丼一杯が15銭とあるのでそれほど高くもなく、子供には小旗のお土産が渡されたからいちばんの人気だった。
初日には1,606人、半月後には1日2,400人が搭乗したと報道されている。人気ぶりからするといまのアミューズメント施設の行列どころではない長蛇の列だったろう。
*1875=明治8年 福沢諭吉が慶応義塾内に念願の「三田演説館」を開館した。
造語の名人として知られた福沢はシビリゼーションを<文明開化>と訳して流行語にし、スピーチ・ディベートを<演説・討論>と訳した。近代的な洋風演説の実践会場として私財を投じて建てた意義は大きく、門下から尾崎行雄、犬養毅らの名演説家を輩出した。福沢は『学問のすすめ』のなかで「演説とは英語にて<スピイチ>といい、大勢の人を会して説を述べ、席上にて我思ふ所を人に伝ふる法なり。(中略)第一に説を述べる法あらざれば議院も其の用を為さざる可し」とその重要性を説いている。
アメリカから取り寄せた図面をもとに造られ洋風でありながら外観は木造瓦葺でなまこ壁など日本独特の工法が使われた和洋折衷の建造物である。1924=大正13年に三田キャンパス内の稲荷山に移設され国の重要文化財になっている。
*1947=昭和22年 昭和天皇と宮内記者との初の記者会見が行われた。
天皇の<人間宣言>はあったもののそれまでの発表はすべて紙ベースだったから、吹上御苑の「花蔭亭」で行われた会見には各社とも一線級の記者を送りこんだ。
会見内容は前年2月から行われていた地方巡幸から生物学研究、スポーツにまで及んだ。会見で天皇は地方巡幸について「これからも旅を続けて一人でも多くの国民を激励したい」と語り、国民とともに戦後の復興を歩んでいく決意を強調するものとなった。
*1952=昭和27年 「血のメーデー」と呼ばれたメーデー事件が起きた。
明治神宮外苑広場で行われた第23回の中央メーデーは午後からは5地区に分かれてデモ行進に移った。ところが間もなく都学連を主力とする約千人が本隊を離れ2時20分過ぎには日比谷交差点で警備にあたっていた警官隊と衝突、学生らはなだれ込むように使用不許可だった皇居前広場へ乱入した。6千人にふくれ上がったデモ隊は皇居二重橋前で警戒中の警官隊5千人に正面からぶつかり、広場全面で入り乱れての乱闘になった。
こん棒やプラカードなどを振りかざすデモ隊に警官隊は催涙ガスとピストルを発射、デモ隊2名が射殺され2千人以上が重軽傷を負った。車両13台、白バイ1台が焼かれ20台以上が大破した。東京では初の騒擾罪が適用され1,230人が検挙された。同じ日、京都でもデモ隊と警官隊が衝突、23人が逮捕され、双方合わせて2百人以上が重軽傷を負った。