“5月2日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1885=明治18年 硯友社の機関紙『我楽多文庫』が創刊された。
硯友社は尾崎紅葉や山田美妙らが結成した文学結社で社友には巌谷小波、川上眉山、江見水蔭、広津柳浪と多士済済だったから掲載内容も小説、漢詩、戯文、狂歌、川柳、都々逸となんでもアリ。たしかにぴったりのネーミングだった。創刊とはいっても内部だけで回覧しただけだったので古書業界では<肉筆回覧誌>と呼ばれる。もし出てきたらとんでもない高値になるそうで。おっとのっけから脱線してしまった。
紅葉の「雅俗一致体」、美妙の「言文一致体」などいわば<文体模索の実験台>とされる。二人が手分けして手書きしていたがそれが間に合わなくなったのと人気が出てきたので86年11月から非売ながら活版印刷になった。87年3月からようやく公売になったので『文庫』に改題して第17号を「返り初号」とした。紅葉の『風流京人形』などの連載が人気だったがこの頃の硯友社を坪内逍遥は「まさに文壇の梁山泊なり」と評している。才能にあふれた面々が揃っていたわけだ。
その後、美妙が別の雑誌の主筆に迎えられて脱退したことなどもあり89年10月終刊になった。公売からは27号、創刊からは通巻43号を数える。
*1894=明治27年 朝日新聞にいま風にいえば「レンタサイクル大繁盛」という記事が出た。
「近頃東京市内何れの所にても自転車の貸車所盛んに出来。日夜これを借りて遊び半分に乗り廻すもの最も多し。既にこのほど神田一ツ橋通りにて馬車に触れて大負傷せしもあり」と現状を問題視したうえで、貸自転車は意外に儲かるようだと紹介している。
新たに自転車を製造するには5円内外がかかるが、貸し賃は1時間2銭、1日なら20銭だから1カ月で元が取れ、翌月からは6円ずつ丸儲けになる計算であるとそろばんをはじき、だから貸人力車屋からの転業組が多いのだと分析する。
それにしても貸人力車屋ってどんな商売でしょうね。まさか自分の家族を乗せるわけではないだろうから「人力車を借りて営業する」ということか。借りた方は<額に汗して>必死で稼がなくてはいけないけど、貸した方はオーナーだから<左うちわ>か。
まるで焼き芋屋さんの商売形態みたい。いや、そんなものじゃない。傍から見る以上に苦労があると叱られそう。
*1901=明治31年 東京瓦斯会社が調理に瓦斯使用を勧める初の新聞広告を各紙に出した。
東京ガスの前身でそのコピーは
瓦斯竈(かまど)は本社の発明品にして専売特許を得、二升の米は瓦斯代わずかに一銭三厘、時間は十八分にして炊くを得べく安全と人手を省き、瓦斯と水道は、家庭は勿論料理店旅宿其他飲食店の必用缺くべからざるものとなれり。瓦斯七輪、焼物器、西洋料理器も使用軽便瓦斯代は木炭よりも遥かに低廉なり。
「瓦斯竈」は大家族で使う米炊用の羽釜(はがま)が載せられる鉄板を円筒形に巻いた形のかまどで「瓦斯七輪」は旧式の鋳鉄製のガス台、「焼物器」は魚などを焼く和式のオーブン、「西洋料理器」は同じく洋式オーブンですか。活字で説明するのは意外にむつかしい。
*713=和銅6年 朝廷が諸国に「風土記」の撰上を命じた。
地理、地形、産物の詳しい品目や量、地名の由来、人口などいわば<地域白書>の記載を求めた。朝廷の最大実力者だった藤原不比等が健在で、地方事情をつかむと同時に将来の課税のための基礎資料にすることを狙った。それだけでは地方に疑われる地域の郡や郷の名にはめでたい「好字」で書けとか伝説や物語を紹介するようにと付け加えている。
巧みに<カモフラージュ>したというか伝説の中に朝廷の権威を傷つけるものがないかをチェックしようとしたかさまざまな意図のあった<国勢調査>ではあった。
*1914=大正3年 読売新聞にはじめて「人生相談」が登場した。
相談第1号は明治45年東京帝大文科卒というインテリ男性で悩みは<愛のもつれ>というからいまとあまり変わりませんな。最初は読者からの相談はなかなか来ないのでひょっとして<社内募集>したのでは、というのは勘ぐりすぎ?
新聞への掲載以外にも本社では日曜日を除く毎日午後4時から6時まで、直接面接による相談も受け付けたというから至れり尽くせりだった。