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“5月4日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1914年  20世紀最大の難工事といわれたパナマ運河が完成した。

運河は南北アメリカ大陸を結ぶ地峡の<くびれ>部分にある。当初はフランス人で「スエズ運河の父」といわれたレセップスが1880年に着工したが黄熱病の蔓延や技術的・資金的に行き詰って撤退した。その後、コロンビア領だったパナマが独立するとルーズベルト米大統領がパナマ共和国の承認とともに運河の建設権と租借権を含む「パナマ運河条約」を締結した。米国政府による大工事は10年がかりでようやく完成したが黄熱病やマラリアなどで6千人が犠牲になった。

首都パナマのある南側の太平洋から北側のカリブ海=大西洋へ抜けるには、ほぼ北西方向に進むことになる。アメリカ橋を潜ってミラ・フローレス閘門→ミラ・フローレス湖→ペデロ・ミゲル閘門→ガトゥン湖→ガトゥン閘門を抜ける約80キロで、通過には24時間、丸一日かかる。中央部にあるガトゥン湖の標高が海抜26mもあり水位の調整に時間がかかるのと、船の自力航行ができないので運河の両側から電気機関車で牽引する区間があるのとタグボートを使う水域があるためだ。

なぜ詳しく紹介するかというと友人が参加した客船クルーズのパンフレットをもらったから。そのときは正直「ちょっと嫌味だよな」と思ったけど役に立ったみたい。通航料は船種や積載量、トン数など船舶の大きさに基づきパナマ政府が定めているが、基本的には1トンにつき1ドル39セントで平均は54,000ドルという。

豪華客船が313,000ドル以上を払ったことが話題になったが、2014年完成予定の拡張工事が終わればさらに記録が伸びそう。逆にいちばん安かったのは1928年に<泳いで通過>したアメリカの冒険作家リチャード・ハリバートン(1900-1939)の支払った36セントであるなどとこちらはギネス記録にある。

*1938=昭和13年  講道館柔道の創始者・嘉納治五郎が帰国途中の客船・氷川丸で死去した。

エジプト・カイロで開催されたIOC総会から米国経由で帰国途中に肺炎にかかった。横浜まであと2日のところで77歳だった。「柔よく剛を制す」を地でいった柔道だけでなくスポーツの国際化に大きく貢献した。はるばるカイロに出かけたのも、軍部の反対で雲行きの怪しくなったが1940=昭和15年の第12回オリンピックの東京招致に変更がないことを<再確認>するためだった。

遺体は氷詰めにされて帰国、横浜港の岸壁を埋めた多くの関係者に涙で迎えられた。東京開催が決まったオリンピックも招致委員会を代表した嘉納の奔走でこのときは「変更なく実施」とされていたが、戦争の激化により<返上>となり幻に終わった。

*1983=昭和58年  劇作家で詩人、演劇実験室「天井桟敷」を主宰していた寺山修司没、47歳。

これ以外でも演出家、俳優、映画監督、作詞家、脚本家、小説家、随筆家、評論家、写真家、歌人、俳人・・・。「言葉の錬金術師」の異名をとり、さまざまな活動がメディアを賑わせた。本業を聞かれると「僕の職業は寺山修司です」と答えたという多才な人物だった。

「昭和十年十二月十日に ぼくは不完全な死体として生まれ 何十年かかゝって 完全な死体となるのである」

と最後の詩作品「懐かしのわが家」に書いた寺山は、文字通り<完全な死体>となった。

告別式の参列者に渡された「ごあいさつ」には
  駆けてきてふいにとまればわれをこえてゆく風たちの時を呼ぶこえ
という「初期歌篇」の一首がそえられた。

*1872=明治5年  千葉勝五郎が初めて許可を得てラムネの製造販売を始めた。

ラムネは炭酸ソーダ、酒石酸、糖類などを水に溶かし、香料(フレーバー)を加えて製造する炭酸飲料である。もとは神戸や横浜の外国人居留地で飲まれていたのがルーツで千葉はこれを東京で<官>の製造販売許可を正式に取得した。のちにこれが「ラムネの日」になった。「ラムネ玉」と呼ばれるガラス球を封入した独特のラムネ瓶は、当初から日本に持ち込まれていたという。英語のレモネードがなまってできた言葉とされ「沸騰散」の名もあった。口のなかで炭酸ガスが<沸騰する>あの感じでしょうね。

コレラが大流行した1886=明治19年には「天然氷は粗悪品が多く、非常に危険であるから、夏の飲料水は安全なラムネに限る」と宣伝して売り上げを伸ばしたが次第にサイダーに押されて行った。

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